生きる勇気

生きる勇気 (平凡社ライブラリー)

生きる勇気 (平凡社ライブラリー)

 原題は「The Courage to Be」で、「存在への勇気」とも訳されます。本書では表題は『生きる勇気』ですが、文中では併記しています。
 パウルティリッヒカール・バルトと並び称される神学の巨人ということですが、不勉強でティリッヒは本書で初めて知りました。本書は渡辺和子が『「ひと」として大切なこと』の中でぜひ読むようにと紹介していたので読んでみることにしました。
 本書では、「勇気」という概念が、古代ギリシャ哲学から説き起こし、近代に至るまでどのように扱われてきたかを概観しています。正直この辺の記述は難解すぎて全部は理解できませんでした。哲学の素養が足りないままに、ある特定の概念、ここでは「勇気」を取りあげて論じている文章を読むというのは困難です。
 ティリッヒの本領である「神学」が中心に出てくるのは結論部分の第六章「勇気と超越」で、?生きる勇気の源泉としての存在それ自体の力 ?存在それ自体を鍵として生きる勇気 にティリッヒの主張が凝縮されています。
 理解できたところだけを私なりにまとめてみます。現代人が直面するのは意味喪失に対する不安である。ここでいう勇気とは「にもかかわらず」という勇気であり、絶望する勇気、絶望を受け入れる勇気である。目を背ける勇気ではない。自殺することは目を背ける勇気にあたると考えられると思う。「絶望している」と言うことができる自己は絶望を受け入れる可能性がある。無とは存在に含まれている。ここでいう存在とは、有無の相対的な世界のさらに深淵にあるものである。ここで私は禅を思い浮かべたが、ティリッヒはそうした東洋的な神秘思想とはまた違うという。違うというか、神秘的な体験はその一部であるという。ティリッヒのいう「存在」の要素として人格としての出会いがある。人格としての神に人格としての人間が出会う。そこに救済を見出す。そうした思想も「存在」の一部ではあるが、そのものではないという。ティリッヒは神はその内部に無を抱え込んだ存在であるという。そうでなければそれは死んだ神であって、生きる勇気の源泉とはなり得ない。ニーチェはそういう神を殺したのである。「神」と言えばすべてが解決するようなそういう説明不可能の神、人間の救済の道具となる神ではない。また人も神の前に主体性を失う人形ではない。神と人どちらかが手段とされてしまうような関係ではない。
 受け容れてくれる何者かあるいは何物かをもつことなしに、受け容れられていることを受け容れること、これをティリッヒは「絶対的信仰」と呼ぶ。これは難解である。何度読んでもなかなかわからない。この概念が超えているものは、全体の部分となる存在への勇気と自己自身であろうとする存在への勇気である。この二つは相反する方向に働く力で、この部分の説明は理解しやすかった。
 全体の部分となる存在への勇気は「参与」という概念で説明される。これは現代の日本でも社会参加の文脈でよく出てくる考えだと思う。「生きる」というのはお金の問題だけではなく、人間の集団への参加、自分がその中で役立ち、その集団を向上させているという感覚が必要であるというような分客で。しかしこの概念は行きすぎると自己が集団に埋没してしまい、体制順応の危険がある。その方向とは逆に自己自身であろうとする力がある。何物にも参与せず自由であろうとする自己は、行為することができない。行為すれば、対象に巻き込まれてしまい、自己の自由の完全性は崩されてしまう。かくして自己は空虚な自己として、嘲笑主義的に生きるしかない。しかし空虚でありながら、自己の内容は自らが嘲笑する世界で出来ているため、自己自身を否定することになってしまう。自己自身であろうとする勇気は、自らが闘ったはずの体制による非人間化や物象化の方向に極端に振れ、全体主義的反動へと進んでしまう。ナチスなどを例として挙げている。この辺は難解できちんと説明できないが、人は何物にも依拠せずに「ある」にはあまりにも弱いということだと思う。
 この二つの一見相反するあり方を止揚する概念として「存在への勇気」はあり得る。二つの自己の方向を否定するのではなく、同時に存在させるのがこの概念の特徴で、深層に「存在」があり、その受容が人を救済へと導くのである。