ルター

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 本書は?「ルターの住んだとき、ところ」?「マルチン・ルターの生涯」?「ルターの思想」の三部構成になっています。?によってルターの生きた時代と、当時のドイツの状況が概観されます。面白いのは何と言っても?の、ルターの生涯ですが、時代背景をきちんと知っておかないと宗教改革がなぜ起きたのか分からないので、はるか昔に習った世界史の記憶を引き出しながら読む。ドイツがヨーロッパの中では後進国で小さな邦に分かれており、絶対王政が敷かれてしなかったことがあって、ローマ教皇の力が及びやすかったために、教皇による政治的な干渉や、財政上の搾取を受けやすい土地でした。そのことがいわゆる免罪符(「贖宥状」の方がIndulgentia インドゥルゲンティアの訳としては適当のようです。罪を免ずるのではなく、罪による罰を免除することであり、償いの免除だそうです。また贖宥状のキリスト教的な理屈としては、聖人やイエス・キリスト自身が有り余るほどの徳を天上に積んでいるため、教皇はその徳を引き出して、一定の条件のもとで分与できるというのが元々の考えだったそうです。)を売るのにも好都合でした。また、ルネサンスの影響で人間解放の機運が高まり、さらに十字軍の遠征によって物流が盛んになり、貿易、商業が発達します。多くの富を蓄えた大商人は領主や司教に高利の金貸しをするようになり、神聖ローマ皇帝の選定にも影響を行使するようになります。さらに教会は十字軍の遠征の失敗により、権威を失いつつあり、各地で農民一揆が頻発するようになっていました。
 ルターははじめ、修道士になる予定ではありませんでしたが、ある日目の前で落雷があり、修道院に入る決意をします。ルターの思想が形成された時として「塔の体験」と呼ばれる時があります。神学博士となったルターは大学の神学部でパウロの書簡を学生たちに講義していたが、修道院の塔の書斎で苦悶の末に新たな義の理解に至ったというものです。それは「信仰によってのみ義とされる」というルターの福音主義の中核です。
 ルターは腐敗したローマ教会を改革して正しい道に戻ってほしいと思っていましたが、はじめから教会をつぶすことや、教皇を否定する意図はありませんでした。宗教改革ののろしに位置づけられた「九五か条の提題」もラテン語で書かれており、専門家に向けて書かれた神学上の問いかけであって、一般民衆には無関係でしたし、教会の扉にそうした問答を貼り付ける行為も、当時の一般的な慣習であり、ルターが特に過激だったわけではありません。しかしこの提題は筆写されて大学を中心に話題となり、さらに独訳されて民衆にも広まりました。このことによってルターは宗教改革の火付け役に祭り上げられていきます。冒頭に記した当時の背景から考えると、機が熟していたということでしょう。ルターは真剣に聖書に向き合い、真剣に信仰を考えた結果、当時の常識を打ち破る事になってしまったのです。その後起こった農民大一揆にルターが反対したことについて、権力者側に与したのだという批判もあるようですが、ルターからすれば、そうした革命的な運動の旗振り役を買って出た覚えはないというところでしょうか。ただ、自ら農民の子を自称し、庶民の側に立とうとしてきたルターは農民たちからの支持を失ったことは非常に悲しかったようです。その後も事態はルターの手には余る展開を見せ、ついにカトリック諸国と新教諸国の戦争にまで発展していくのです。
 20世紀になって同じマルティンの名を持つ、キング牧師公民権運動を開始した時にも、事態がどんどん展開していき、大きな運動となっていきますが、キング牧師は聖書に基づいて行動を起こし、あの偉大な行進へと繋がっていくのです。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」と聖書にあるが、そもそもキリスト自身が、当時のユダヤ教の常識を壊してキリスト教を創ることになったのです。キリスト教には常にそうした自己改革機能のようなものが備わっていて、みせかけの平和を打ち壊して新たな創造の業を行っていきます。現代の日本も機は熟しているように思いますが、さて、次のマーティンは出てくるか。