選択の科学

 筆者のシーナ・アイエンガーはカナダ生まれ。両親はデリーからの移民でインド人シーク教徒。結婚から日常の作法、服装に至るまですべて決められた慣習に従って生きてきた。シーナはアメリカに移住してアメリカの学校に通ったときに、これまでの人生とは全く逆の「すべて自分で決める」価値観に驚き、それが出発点となって「選択」が人に及ぼす影響を研究することとなった。
 筆者は3歳の頃に目の疾患が発見され、高校に上がる頃には全盲になった。現在はコロンビア大学ビジネススクール教授をしている。本書を読んでいる限り、筆者が目の見える人かどうかはわからない。当たり前のようにサポートがされているからだろう。日本であればどうだろうか。そういうこともだんだんできるようになっているのだろうか。
 私がこの本を読もうと思ったきっかけは、先の衆議員選挙である。いくつもの政党が乱立しどこに投票したらいいのかわからないような状況で、毎日新聞だったかコラム欄に有名なジャムの実験とともに本書を紹介していた。このジャムの実験の話は別のところでも聞いたことがあったが、そんなに気に留めてはいなかった。ジャムの実験とは、選択肢が多い場合と少ない場合とではどちらが売上が伸びるかという実験である。品揃えが多いことで有名なアメリカのあるスーパーマーケットが品揃えの豊富さの割には売上が伸びていないのではないかということで、筆者らの研究グループの実験が行われたのである。たくさんのジャムを選べるようにした試食コーナー(24種類)とわざと選択肢を狭めた試食コーナー(6種類)を設置して、それぞれの試食が売上にどれだけ貢献したかを調べたところ、選択肢を狭めた場合の方が圧倒的に売上につながったのである。それは言い換えれば「買うという選択」をしたということだ。筆者はこの現象をジョージ・ミラーの『マジカル・ナンバー±2:われわれの情報処理能力の限界』を援用しながら説明している。多すぎる選択肢は私たちを選択不能に追い込んでしまい、かえって利益から遠ざけるということだ。ジャムの他にも保険業界の保険の種類の多さと複雑さを挙げながら、多くの人が自分に合わない保険を選んでいるか、結局迷ったあげくに保険に入らずに将来の不利益を蒙るかしていることを調査して明らかにしている。
 上記に紹介したジャムの話は本書の「第6講 豊富な選択肢は必ずしも利益にならない」に書かれている内容だが、実はこの前の部分までは選択がいかに生きることにとって大切かを証明してきているので、ここで筆者はそれまでの意見とは違う角度で読者を惹きつけていく。
 第7講「選択の代償」ではさらに踏み込んで、選択権を自ら手放すことがかえって幸福につながる場合もあることを示唆する。筆者は一つの仮定のもとで被験者に選択をしてもらう実験をする。もしも自分に早産で生まれたばかりの幼子がいて、その子に重い障害が残っても延命処置をするか、生命維持装置を止めるかの選択を自分で行う場合と、医師にすべて委ねる場合とで比較する。ここで筆者は古代まで遡って医療における医師の権威の歴史を振り返り、アメリカでは現在はインフォームド・コンセントの思想が普及して、医師はすべてを患者や患者の家族に告げて、許諾を得なければ処置をしないのが普通であるという。フランスでは医師の説明はあるが、決断は医師が行い、患者やその家族に選択権はないらしい。筆者は実際にそのようにして子どもを失った人たちの聞き取り調査なども行っている。自分で何もかも選択した場合、自分の選択は本当に正しかったのかといつまでも悩み続けることになり、かなりの苦痛を抱えることになり、医師に委ねた場合よりもその苦痛は大きいようだ。しかし医師に委ねた人は、自分で選択をしたかったという気持ちは持ち続けるという。筆者は結論的に、選択をしたいという人の欲求は本能的なもので強力だが、選択にはそれだけ支払わなければならない代償が伴うと言っている。その苦しみの根源を、本来比較するべきでないものを比較しなくてはならない苦しみと言っている。本文では「アメリカの親たちは、選択するために、子どもたちを値踏みすることを強いられた」とある。
 さて、後半部分のことを先に書いてしまったが、後半部分を面白く読むためには前半部分をきちんと読んでおくのがよい。
第1講「選択は本能である」選択は生物の本能である。なぜ満ち足りた環境にもかかわらず、動物園の動物の平均寿命は短いのか。なぜ、高ストレスのはずの社長の平均寿命は長いのか」この講は実に面白く、実感に合っていると思う。仕事上の裁量権が小さければ小さいほど勤務時間中の血圧が高くなるそうだ。仕事に対する裁量権がほとんどない人たちは、背中のコリや腰痛を訴えることが多かったほか、一般に病欠が多く、精神疾患率が高かったという。そしてこれは飼育動物に見られる症状とよく似ているという。確かにそうだ。政治家などを見るとよくわかる。高位にあるほど年齢の割に元気で、世間では定年を迎える年齢くらいから初めて大きなポストが回ってくる。仕事自体は楽なはずなのに、そういう人ほど愚痴を言っている。これも筆者の理論で説明がつく。他にも選択が本能だということを動物実験などで明らかにしている。ユニークな実験が多く、面白い。
第2講「集団のためか、個人のためか」この講でも感覚的にそうだなと思われることを実験によって確かめている。アメリカの子どもと東洋人の子どものグループで行った実験では、アメリカの子どもは全部自分で選ばせた時に、東洋人の子どもはお母さんが選んだと告げた時に一番成績がよかったという。ここから私が思うのは、さまざまな規制緩和で何でも選べるようになってきている社会が、かえって以前よりも不安で危険な感じがするのはこの辺にも理由があるのかもしれないということだ。日本人の多くは自分で選べと言われるよりは、誰かに決めてもらいたがる。それは長い年月をかけて作られてきた文化の結果だろう。自分で勝手に選ぶよりも、大勢の決定にしたがっていた方が幸せになれるという形が続いていたからだろう。しかしこれは第1講の内容と矛盾してしまう。筆者は「自己決定権を維持できないとき、わたしたちは無力感、喪失感を覚え、何もできなくなってしまう。」「それでは信仰は無気力につながるのか」という問いを立てている。
 実験の結果「原理主義に分類された宗教の信徒は、他の分類に比べて、宗教により大きな希望を求め、逆境により楽観的に向き合い、鬱病にかかっている割合も低かったのだ。実際、悲観主義と落ち込みの度合いが最も高かったのは、ユニテリアンの信徒、特に無神論者だった。これだけ多くのきまりごとがあっても、人々は意欲を失わず、かえってそのせいで力を与えられているように思われた。かれらは選択の自由を制限されていたにもかかわらず、『自分の人生を自分で決めている」という意識を持っていたのだ」「制約は必ずしも自己決定感を損なわず、思考と行動の自由は必ずしも自己決定感を高めるわけではない」
 この一見矛盾に見えることがらを、筆者は個人がどういう語りの世界に属しているかに左右されると考えている。「選択」という行為が持つ意味そのものがどういう文化に属するかで違うというのである。まさに日本では「自分で勝手に選ぶよりも、大勢の決定にしたがっていた方が幸せになれる」という信仰が誰かの決定に従うという「選択」をさせるのだろう。
 筆者はこの後、社会主義国の「選択」の概念とアメリカのそれとの違いを詳しく説明している。
 第3講「強制された選択」あなたは自分らしさを発揮して選んだつもりでも、実は他者の選択に大きく影響されている。その他大勢からは離れ、かといって突飛ではない選択を、人は追う。
 第4講「選択を左右するもの」人間は、衝動のために長期的な利益を犠牲にしてしまう。そうしないために、選択が左右する内的要因を知る必要がある。
 第5講「選択は創られる」ファッション業界は、色予測の専門家と契約している。が、専門家は予測ではなく、単に流行を創っているのでは?人間の選択を左右する外的要因を考える。
 この3項では、目次のリード文だけ挙げた。この辺りを読むと、筆者がビジネススクールの教授という感じがしてくる。実際、ジャムの実験をはじめ、筆者の研究はすでに世界中で応用されている。私たちは日々選択をしながら生きているので、筆者の扱っている研究は私たちの行動の多くをカバーしている。本書には具体的な事例が数多く入っているが、CMや投票行動やサブリミナル効果などの説明の下りを読んでいると、ちょっと恐ろしくなってくる。私たちが何の気なしにさらされているメディアの戦略に知らず知らずのうちに載せられて選択しているのかもしれないと思わされるからだ。悪用しようと思えばいくらでも悪用できそうだが、いいことに使おうと思えばこれも使い道はかなりあると思う。私の勤める教育現場などは特にいつまでもアナログな勘に頼るのではなく、こうした分析的なものの見方を学ぶことが必要だろう。