無理と言う前に

                  あなたを諦めない 自殺救済の現場から (フォレストブックス) (Forest・Books)

藤籔庸一 いのちのこ とば社

 藤籔先生は和歌山県白浜町で三段壁から自殺しようとする人たちを保護し、自立まで導いていく活動をしている、キリスト教の牧師です。藤籔先生自身、この白浜で育ち、白浜の教会に通い、牧師として故地に戻ってきたのでした。自殺志願者の救助はもともとこの教会の牧師がしていたことを藤籔先生が引き継ぎ、発展させてきたものです。
 三段壁には教会の電話場号が書かれた看板が出ています。近くの公衆電話には10円玉が藤籔先生の手によって常にいくつか置いてあり、先生は24時間態勢で電話を待っています。
 本書には実際に救助した人たちと共同生活を営みながら自立に向けて援助する藤籔先生や、そのご家族の記録が詳しく(といっても言えないこともたくさんあっただろう)書かれています。この活動の記録に読み応えがあるのはもちろんですが、もう一つ、活動の資金を得るためにNPO法人を立ち上げ、宅配の弁当屋を始め、恒常的に活動を行う営利事業を展開していくくだりも読み応えがあります。
 まず、はじめの共同生活のくだりでは、本当に現代の日本でこんなことができるのだと驚いたというのが率直なところです。見ず知らずの人と共同生活を送る、お金はない、牧師の給料ではとても生活は賄えない、奥さんに子どもができる、弁当屋の運営もなかなかうまくいかない、このような状況でも、神様に祈りながら何とかしていってしまうのが、奇跡を目の当たりにしている感じがします。でもその内容をよく読めば、その奇跡はそこにいる人たちへの信頼と、お互い様の気持ちで支え合う関係性によって、成るべくしてなっていることに気づきます。自殺まで追い込まれる人の背景は様々だと思いますが、この社会でうまく立ち回れないからそうなっているのであって、そういう人たちと共に暮らすというのは、やはりかなり心理的な負担があると思います。小さな子どももいるのにやめた方がよいという周囲の忠告は真っ当な感じがします。しかし本書を読んでいると、藤藪先生の子どもたちは多くの他人と関わることで、タフで優しいお子さんたちに育っている印象を受けます。
 藤籔先生は本書の中で「長屋」のような人間関係という表現を使っていましたが、まさに近代化の中で日本人が「しがらみ」として捨ててきた「地縁」というものが、この藤籔先生の周りには復活しています。しがらみを捨てて、代わりに手に入れたプライバシーはそんなにいいものだったろうか、と改めて反省させられます。藤籔先生の目は高齢で誰とも関わらず、独り暮らしをしている地域の老人たちにも向けられています。また、夏の観光地である白浜町で、夏休みに家で一人ほったらかしになっている子ども達に向けられています。
 日本人はしがらみを捨てて人間関係の希薄な世界に生き、人間関係づくりの下手な人たちになってしまったと思います。そして今、人間関係の難しさに直面して、再びそうしたしがらみの中でタフに生きていくコツを学び直さねばならない時期に来ているようです。しかしプライバシーの権利や、親の子に対する権利など、それらは必要なものではあると思いますが、様々な場面で障壁になっています。最近話題になっている虐待死の事件でも、他者がどこまで家庭の中に介入できるのかが大きな問題となっています。
 藤籔先生は終わりの方で今後の展望として、私立の全寮制の学校を作るというヴィジョンを示しています。親から子を離し、きちんとした生活習慣をつけ、型にはめることでかえって個性を伸ばす教育ができる、地域に密着した学校作りをしたいというヴィジョンだ。その子ども達が地域のお年寄りの見守り活動も担う、そんな学校です。「そんなことは無理だ」という声があちこちから、(私の心からも)漏れ出る。しかし藤籔先生が辿ってきた道を本書で窺い知ると、そうした無理だと思われることを次々と実現しているのも事実です。
 二つ目のことに入りますが、藤籔先生は本当にすごい人だと思いつつも、欠けの多い人だというのも事実です。弁当屋を巡るくだりを読んでいると、そう思います。これは藤籔先生が特に欠けが多いという話ではなく、そうした自分の至らない部分を隠そうとしない人だということです。誰でも得意なことと不得意なことがあるでしょう。でも必要なら不得意なことでもしようとするのが藤籔先生であり、最後までやりきってしまうのがおそらく他の人と違うところです。そこにはやはり神様との約束、神様のヴィジョンというのが働いている、そういう気がします。私たちは得意なことを伸ばして、自分のできることを探そうとします。進学でも、就職でもそういうアドヴァイスをもらうはずです。ところが藤藪先生の場合は、先にヴィジョンが与えられ、とにかく始めるというところから出発です。必要な人材はあとから与えられるはずであるという確信があります。なぜならそれは神の計画だから。
 もちろん、現実的な路線変更などはいくつもあり、現実的なアドヴァイスをしてくれる人や、嫌になって群れから離れていく人もいます。でも藤籔先生も言っていますが、「牧師が理想を語らなくなったら終わり」なのであり、それは学校の教師も同じであると思います。ヴィジョンを示す仕事ができる人は少ない。現実的な課題が与えられてそれに現実的に対処する能力に長けた人たちは日々量産されています。そのメインロードから外れた人ばかりを集めて現実世界でお金を稼ごうとしているのですから、難しいに決まっています。でも、やる。それが神のヴィジョンだから。実にシンプルで力強いリーダーです。こういう事業があり、そのためにはこんな人材が必要だから、そういうことに長けた人を雇おうというのが普通に順序です。ここではすべてがひっくり返っています。でも事業はちゃんと回っています。藤籔先生の活動を見ていると、おかしいのは世界の方ではないか、という気がしてきます。それはある意味、イエス・キリストが生まれた古代のパレスチナでも同じだったのではないでしょうか。みんなが常識と思っていることと逆のことをし続け、十字架に架けられた男。でも彼のことばに耳を傾けると、間違っているのは世の中の方ではと思わされます。しかし人々はずっと「そんなのは理想論だよ」と切り捨ててきたのです。キリストが死んだ後も。
 藤籔先生を見ていると、キリスト者である、特にその福音の伝道者であるということがいかに苛酷で、すべてを神が要求するものであるかがわかります。聖書には「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(使徒9:15・16)とあります。これはキリスト教徒の迫害者が復活したイエスに出会って回心したあとの場面で出てくることばです。これはパウロが迫害者であったから、罰としてキリストの福音を苦しんで伝えよという意味ではないのでしょう。キリストの福音を伝えるものは、常に世の無理解にさらされ、常にマイノリティとして、神の福音を宣べ伝えなければならないのだという宣言であり、パウロのあとに続くすべての福音宣教者にも同じように言われているのだと思います。