戦闘美少女の精神分析

 美少女フィギュアの写真がドーンと表紙に載っている奇抜な装幀は村上�璧氏である。筆者斎藤環の「あとがき」によれば、「私は本書を、論理的でありながらも、少女的エロスが匂い立つようなものにしたいとかねがね考えていた。しかし私の文体は、残念ながら未だ性的魅力を湛えるレヴェルには到達していない。そこで本書のセクシー部門を、氏に全面的に依託したというわけである」と解説してある。この装幀と「せんとうびしょうじょのせいしんぶんせき」というタイトル(タイトルはひらがな書きである)からどんな内容の本を読者は期待するのだろうか。私は斎藤環の「まどか・まぎか論」(『ユリイカ』)を読んで、氏の戦闘美少女ものの原点を確認したいと思い本書を手に取っているのである程度の予想をしていたが、始めにこの本を手に取った人は装幀と内容にかなりのギャップを感じそうである。斉藤環の文章は「性的魅力を湛えるレヴェル」とはかけ離れた難解なものである。論理は明快、無理な飛躍もなく、それでいて大胆な仮説を提案し、インタビューや臨床事例を引きながら理論を構築していく文体は読者を引きつけずにはおかない。しかし難解である。まず専門用語が多すぎる。カタカナ語が多用される。読む側に知識がないのが悪いのだが、なかなかつらいものがある。
 さて、本書は題名の通り戦闘美少女(典型的なものとして「美少女戦士セーラームーン」がある)について書かれた本だが、「せいしんぶんせき」とある通り、精神科医斎藤環による精神分析的なアプローチで書かれている。そしてその多くを戦闘美少女の主な消費者である「おたく」の分析に費やしている。本書は「あとがき」によれば1994年に構想されたがしばらく執筆が滞っており、2000年2月に「あとがき」が書かれている。斎藤環は何度か1989年の宮崎勤幼女連続殺人事件を引き合いに出しており、不登校、ひきこもりに詳しい斎藤の問題意識がどの辺にあったのかが理解できる。斎藤は当初おたくに対して批判的なトーンの文章を予定していたが、書き終わってみるとおたく擁護論に大きく振れてしまったと書いている。斎藤によれば宮崎勤は特殊な例であり、おたくが美少女ものに性的魅力を感じていることが、幼女への犯罪に結びつくことはむしろあり得ないという方向で結論づけている。
 現実と虚構を混同してしまう危険性は残虐なシーンのあるアニメやゲームなどについてよく言われることだが、斎藤はおたくはこうしたことはむしろしない存在であると考えている。斎藤は「多重見当識」という言葉で説明しているが、現実も含めた複数の虚構世界を区別しつつチャンネルをかえるように認識しているとしている。現実も一つの虚構に過ぎないという言説は現代の我々にはもう目新しい説ではなくなってしまった。現実と同じように虚構にもリアリティを見出し、その二つを混同しない、これがおたくのあり方である。斎藤は数多くのおたくにインタビューしてこのような結論を導き出している。アニメの美少女に熱狂しながら冷めている。おたくは美少女キャラを神聖視しない。気に入らないストーリーは自分の好みに書き換えてしまう(二次創作)。典型的な例として『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビ放送シリーズの最終話が評判が悪く、多くのファンが自分たちの望む結末を数多く発表したことを挙げている。「彼らは作者を必ずしも絶対視しない。たんなるファンの立場以上に、彼らは目利きであり批評家であり、作家自身でもありうる。」
 このようにおたくを分析していく斎藤が分からないこととして挙げているのが、セクシュアリティの問題である。斎藤自身はおたくがアニメの美少女に性的に興奮することが理解できないとしつつ、おたくへのインタビューを通じ、明らかにしていく。ここで、斎藤が対照的挙げている例で展開されている議論が分かりやすい。ディズニーおたくは存在しない。ディズニーアニメではセクシュアリティは徹底的に排除している。しかしその排除の仕方は性的なほのめかしをいっさい描かないという稚拙な排除ではなく、様式化され、虚構化され尽くしており、リアルなセクシュアリティが介在する余地がなくなっていることだとする。例として『トイ・ストーリー』でお姫様の人形がカウボーイの人形を性的に誘惑するシーンが挙げられている。一方、性的に禁欲的に対しているように見える宮崎駿の『風の谷のナウシカ』のナウシカはおたくのセクシュアリティを吸い上げ続けているという。徹底した排除が隠蔽効果としてセクシュアリティを強調してしまう。
 欧米のオタクたちはアニメキャラにセクシュアリティを感じることを嫌悪するそうだ。斎藤は一章を割いて海外のオタクと日本のおたくの違いを分析する。海外の主要な大学のほとんどが何らかのアニメファンのサークルを持ち、手の込んだホームページを開設しているそうだ。斎藤は彼らオタクとメールでやりとりをした結果を文章にしている。メールの相手がマサチューセッツ工科大学とかコロラド大学とかグリニッジ大学とかハーヴァード大学とか名のある大学が並んでいることに驚いた。斎藤によれば、戦闘美少女というジャンルが日本で特異な発達を遂げた領域であるということだ。欧米での闘う女はアマゾネス的なマッチョな女性で、実写の世界で活躍しておりフェミニズム的な観点で造り出された作品が多いということである。
 アニメとセクシュアリティの問題で、海外は日本よりもかなり厳しいことが明らかにされている。スペインでは宮崎駿の『紅の豚』も成人指定だそうだ。他のアニメもほとんどが放映禁止で、ビデオの形でしか見られないという。アメリカでは『セーラームーン』が変身時にヌードになるシーンはカットされており、性的な含みには敏感である。
 斎藤は日本のアニメに特有のセクシュアリティの問題への解答に当たって、ファリックガールズという概念を導入する。ファリック・マザー(ペニスを持った母親=権威的に振る舞う女性)という概念をもじったものである。ファリック・ガールズは、ヘンリー・ダーガーという作家の造り出したヴィヴィアン・ガールズに由来する。闘う少女であるヴィヴィアン・ガールズにはペニスがついている5〜7歳の少女だ。ヘンリー・ダーガーは誰にも発表せずに一人で小説を書き続け、挿絵を描き、自分だけの物語を作り続けた。その全貌はまだ明らかになったいないそうだ。この作品群は彼が住んでいた家の家主が見つけ、世の中に知られることになったのである。斎藤はダーガーの描くペニスのある少女を去勢否認の象徴と捉えている。それは大人にならない、思春期のまま成熟や成長を拒否するということだ。ダーガーは必要最低限の仕事(掃除夫)で社会につながりながら、日常生活ではひきこもりのような生活をしていたようだ。斎藤はダーガーが努力して自分の物語を作っていったというより、自立した世界を記録者のように描写し、記述しているだけなのではないかと推測している。ダーガーにとって自分の物語の世界こそ現実だった。冒頭の現実世界も複数の虚構世界の一つに過ぎないという話に戻れば、ここでダーガーとおたくが重なってくる。現実の社会生活を営みながら、虚構の物語世界でも生きている。その世界間をチャンネルを替えるように移動する能力、それがおたくの能力であった。
 この虚構世界にリアリティを与えるものがセクシュアリティなのではないかというのが斎藤の結論である。ディズニーアニメは虚構であることから脱出できない。ゆるぎない現実が優位に置かれ、虚構は虚構でしかない。斎藤は過剰なまでの防衛反応としている。日本におけるアニメの自律性は、アニメのセクシュアリティが現実に有効である(アニメのキャラに欲情することができる)ことで証明されると考えている。斎藤は一章を割いて日本のアニメ史を概観し戦闘美少女の系譜を明らかにしているが、その中で宮崎駿の『白蛇伝』体験を挙げている。宮崎駿が高校三年生の時に見た『白蛇伝』のヒロインに恋愛感情にも似た思いを感じたという。宮崎駿は後年、この作品を駄作とし、恋愛感情も恋人の代用品に過ぎないとしている。アニメに恋愛感情を持つこと、つまりセクシュアリティを感じることが外傷体験として影響を与えたと斎藤は考える。そしてその外傷体験が反復され、日本のアニメ史に特有のアニメにおけるセクシュアリティのあり方を形づくっていったのではないかとしている。『白蛇伝』はセクシュアリティを意図して作られた作品ではないが、宮崎にそのような感情を抱かせたのは象徴的だ。ナウシカセクシュアリティを意図していないのに、セクシュアリティの対象として扱われているのと符合する。斎藤によれば、宮崎はアニメ・ファン(宮崎は「おたく」という語を慎重に避けるそうだ)に冷たく、アニメのヒロインを愛着する青年を「ロリコン」と切って捨てる。それにも関わらず宮崎は少女たちを生産し、それらがアニメにおけるセクシュアリティ表現の最重要な位置を占めている。宮崎自身がなぜ少女を描くか彼自身にははっきりと分析されていない。斎藤はここに宮崎の心理の分裂を見てとる。斎藤はこの「外傷と反復」の構図でアニメ史を概観している。
 このアニメ史の中で面白いのは、荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』を取り上げているところだ。荒木はおたくを意図的に排除し、戦闘美少女は登場しない。おたく向けの絵柄を平板なものとして退ける。斎藤は戦闘美少女ものが少女のセクシュアリティをリアリティの核としているとしているが、荒木の作品の核は、情念・パトスの表現であると言っている。つまり映画や小説に近いのだろう。斎藤はそうした荒木がかつて『ゴージャス☆アイリン』という戦闘美少女アニメを描いていたことを指摘、荒木の「自分には女の子が描けない」という言葉を重視している。アニメ表現は単なる絵柄の問題ではなく、作家の嗜好のありようにおいて成立しているということだ。だからこそ、宮崎駿の外傷が問題となるのだろう。
 ファリック・ガールの空虚さが反転したリアリティを持たしていることについて、斎藤は以下のようにまとめている。
「彼女の戦闘能力は説明を欠いた自明の前提となっているか、あるいは唐突に、外から、理由なくもたらされる。いずれにしても、このとき彼女があたかも巫女のような位置におかれていることには異論が少ないだろう。巫女とはすなわち、異世界を媒介するメディアのような存在を意味する。そう、彼女の発揮する破壊的な力は、彼女の主体が操るものではなく、異世界ではたらく一種の斥力のような作用を体現しているのではないか。だから媒体としての彼女が空虚であるのは、むしろ当然のことだ。」
 戦闘美少女は空虚であることによって欲望やエネルギーを媒介する。この空虚さが漫画・アニメという徹底した虚構空間の中では逆説的なリアリティを発生させるという。
 西洋的空間は現実のしっぽを残すことでリアイティを確保しようとする。日本的空間はむしろ「日常的現実」から積極的に解離し、「もう一つの現実」である虚構世界を創り出す。この「もう一つの現実」が維持されるためにセクシュアリティの磁場が必要になってくる。セイシュアリティは虚構化によって破壊されず、虚構空間に移植され、そこで現実的な機能を果たす。
 結末部分ではヒステリー症状と戦闘美少女が対比されて描かれている。ヒステリー患者の症状が反転した症状が戦闘美少女の症状であるとしているが、この辺の説明は難解で十分に理解できない。再読する必要があるだろう。
 宮崎駿がアニメは衰退に向かっていると『風立ちぬ』のドキュメンタリーで語っていたが、どうなんだろうか。国家が文化として輸出に力を入れているそうだが、確かに権威に認められてしまうと衰退が始まるというのは様々な芸術について言えることだ。現在活躍している中堅以上の漫画家たちは「マンガなんて」と言われて育った世代だろう。マンガは文化だと肯定的に受け取られて育った世代がマンガをかく中心世代になったらそうなるのだろう。今も学校教育の場などではマンガは禁止している学校も少なくないのではないだろうか。ましてやセクシュアリティとなるとまず受け入れられる日は来ないと思う。小説の人物や映画の人物に恋をしても誰も非難はしないだろう。むしろ感受性の豊かさや純粋さを賞賛されるかもしれない。アニメのキャラクターに恋する人がそのような扱いを受ける日は来るだろうか。かつては小説も映画も教養の範疇外だった。知識人が小説を読むということはなかった。時代は変わっていくからわからない。