イスラーム哲学の原像
- 作者: 井筒俊彦
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1980/05/20
- メディア: 新書
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『イスラーム哲学の原像』は読みやすいとは言っても難しいので、分かった(つもり?)ところだけ書こうと思います。
表層の意識で認識している世界のさらに奥にはイメージで表される世界が広がっている。そこでは神や天使や悪魔などが現れる。これはユングが集合的無意識と言っている世界と同じもののようである。しかしここよりさらに先には「無」がある。絶対無文節の存在である。老子などがいうところの混沌であり、名づけようのないものである。この絶対無文節の世界から見れば、表層に現れたたとえば、花や動物や雲や人などはこの絶対無文節の「一」から分節してそういう姿を取っている存在である。これをイスラーム哲学では存在一性論というらしい。この考え方では神も人もほかのすべてももとは同じと考えるので、イスラム教からは迫害されたようである。人格神は絶対無文節の「一」からやはり文節したものにすぎないと考えるからである。
この理論を読んでいて、浄土真宗のお寺の掲示板に「命がいまわたしを生きている」と書いてあったことを思いだした。これと同じだと思いました。存在一性論では、存在を術語に置かない。「花が存在している」とは言わず、「存在が花している」という。「一」なる存在が様々なものに分節しているのがこの表層的な現象界である。しかし、イスラーム哲学ではこの現象界の事物を「一」なるものの影に過ぎないとは考えない。ここが仏教と違うところかなと思った。この世を虚仮とは考えない。表層世界の現象も一つのリアリティと考え、絶対無文節の「一」のリアリティとして考える。この二つが二重写しになって存在しているのを「見る」ことが神秘主義者たちの修行の目標のようである。
いま書いたことは本書に書かれていることのほんの一部だが、いずれにしても理論だけ読んでも意味がないのかもしれない。つまり自らその無文節の境位まで行ってみないことには。