自分はどちら側か。

排除の現象学 (ちくま学芸文庫)

排除の現象学 (ちくま学芸文庫)

 解説によれば、著者は元々考古学的な意味での異人や境界と共同体との関係を専門とする人であり、この『排除の現象学』はその理論を現代の事件に当てはめて思考した、応用編ともいえる作品です。「現代」といっても本書は1986年に初版が出版されているため、その扱われている事件は70年代から80年代に起こったものです。しかしその考察と理論の枠組みは現代でも有効です。社会的な生き物として共同体を営む存在である人間に普遍的な枠組みだと思わされます。
 この本は鷲田清一がその著書の中で紹介していたため手に取ることになりました。本書は、鷲田の「〈わたし〉は〈わたし〉でないものを差別することによって〈わたし〉たり得る」というくり返し出てくる考えをよく説明する具体例です。
 本書は序章と6つの章と終章から成っており、「学校」「浮浪者」「物語」「ニュータウン(移植都市)」「分裂病」「前世」をテーマとして実際に世の中に起こった事件を扱っています。その分析は鋭く、読みながら肌が粟立つような瞬間が何度もありました。本書は、自分を無関係な読者に止めてはおかないような当事者性があります。たとえば、下のような記述。
「戦後社会により残された可視的異物としての浮浪者を襲う、異貌の子供たち。少年たちが現実の場に演じてみせた光景は、むしろ、わたしたち市民の内奥で日々くりひろげられている排除の情景が、虚構という名の安全弁をとりはらわれ、鮮明な像を結んだにすぎないのかもしれない。少年たちが浮浪者にむけた眼差しの酷薄さ・非情さと、わたしたちはどれほど無縁であることか。地下道のかたすみに寝ころがっている浮浪者を横目に、関わりにならぬために大きな弧を描いて遠巻きにゆきすぎる、市民の一人ひとりが、意識するといなとにかかわらず、浮浪者という名の異物を排除し、ときには殺害している。横浜浮浪者襲撃事件とは、市民たちの内なる風景である、という視点を欠落させるわけにはゆかない。」
 この事件が子どもたちの単発的な事件でないことを著者は明快な論理で組み立てていきます。この事件に先立つこと数年来、「浮浪者狩り」は日常化しており、市民は見て見ぬふりをしていた。たまたま浮浪者が死ぬという不測の事態が起き、闇に隠されていたものを表に引きずり出すことになってしまった。そしてその子どもたち自身も、排除された存在であることを明らかにします。
「横浜のある中学校では、集団下校が実施され、下校時間をすぎても生徒が残っていると教室内にゴミが落ちているのと同じ扱いで、『校内美化コンクール』の減点対象になるという。生徒には放課後がない。学校を閉めだされ街に出た少年たちの頭上には、『青少年を非行から守ろう』という横断幕が垂れ下がっている。幕の下方には、『伊勢佐木町周辺環境浄化推進協議会』の名前が見える」
 筆者は「異人」と、上記の「異物=ゴミ」とする思想とを明確に区別しています。異人とは、乞食や魂を病める人々のことで、彼らは街に浮浪しており、差別されながらも、街の一部として包摂されていた。かつてはそうした人々が、村の周辺部に存在し、あるいは旅人として村を横切り、内部の共同体と外部とをつなぐ、両義的な存在として認められていたという。被差別民であり、同時に神事で重要な役目を担う人や、門付芸人などを想起します。また、ドストエフスキーの小説などによく出てくる「ユータナジイ」などもそうでしょう。その辺は江川卓が『謎解きカラマーゾフの兄弟』などに詳しく書いています。精神障害者が神に近い存在とされ、一種の巫女のように扱われる。しかし定住せず、人々からの施しで生活し、鋭く忌避されている存在。そういえば、『聖書』にも神殿の門で施しを乞う男が出てくる(使徒言行録3:1〜10)。彼らは境界に存在し、共同体の機能の一部を為している。彼らは、共同体を賦活する役割を担っているのです。彼らを遠ざけつつ包摂することで共同体は維持されています。そこでは、最も差別されている存在が、聖なる存在になる回路が用意されていました。
 著者はこうした「異人」をゴミのように排除しようとする現代の問題を指摘しています。学校におけるいじめの問題もその切り口から鮮やかに分析します。
「1979年に養護学校が義務化され、あきらかな差違をかかえた子供とそうでない子供との分離が、公然と行われるようになった。このことはいじめの問題をかんがえるとき、きわめて重要なエポック・メーキングな出来事として頭におかれるべきだと、わたしは思っている。それはいわば、秘め隠されてきた排除の構造が、市民社会の表層へ浮上してきていることを象徴するような事件であった。念のために言い添えておけば、養護学校の義務化というできごとは原因であると同時に、結果である。均質化をもとめる効率至上主義的な、市民社会を生きるわたしたち自身のある要請と選択の結晶であったといってもよい。いずれ制度と心理の両面において、それは教育の現場に大きな影を落としている。新聞の社会面にいじめをめぐる記事が乗りはじめたのが1978・9年であることは、たんなる偶然なのだろうか。」
 均質な空間を維持するために、常に犠牲者が選び出される。その差違は小さなものでよい。かつての「異人」のような明らかな差違を持った人を包摂した村でなくなった共同体では、誰でもが「犠牲」として「祀り捨てられる」可能性がある。いじめによって誰かが選び出され、「全員一致の暴力」によって自殺するなり転校するなりして、教室という共同体からいなくなれば、次の犠牲が選び出される。そのようにして共同体は維持されていく。
 この学校でのいじめの事例とよく似たものを著者は「ニュータウン」に見る。本来都市とは、雑多な漂泊民を受け入れる混沌とした面を持っているが、ニュータウンは均質化された町である。ほぼ同程度の収入、家族構成、通勤距離、昼間は女と子供しかいない静かで平和な町。そこに「けやきの勝^」という自閉症者施設の建設計画が持ち上がった時の、ニュータウン住民のヒステリックなまでの反対運動を筆者は取り上げています。
ニュータウンという均質空間から共同的に排斥され、人々の無意識の昏がりに浮遊していた内なる他者は、眼前にたまたま姿をあらわした自閉症者に投げかけられる。むしろ、こういってもよい。鳩山ニュータウンという形成途上にある社会は、コミュニティへと自己生成をとげるために、生け贄となるべき異人の出現を待ち望んでいた。そこに格好の標的としてあらわれたのが、ほかならぬ自閉症者であった、と。秩序創成のための暴力としての供犠、それこそがあらゆる秩序の起源に例外なしに横たわる、血まみれた一場の光景なのである。
 ひとたびスケープ・ゴートに指名されたならば、負の理想像の強迫によって、自閉症者の不可解さ・不気味さはどこまでも膨らみつづける。そこでは、自閉症者という異物の出現がコミュニティの平和を侵害した、という転倒した論理が流通している。はじめに排除こそが存在した、にもかかわらず。そして、このフィクショナルな認識論的転倒こそが、供犠あるいは排除の構造の核心をなす、不可視のメカニズムなのである。」
 排除される相手のことは知らなければ知らないだけよいということでしょう。これはあらゆる差別に言えることです。そして排除する側は相手を決して知ろうとはせず、負のカテゴリーに押し込むわけです。
 鷲田清一は、異物排除を続けると、内部が脆弱になり、脆弱になるからもっと守ろうと異物を摘発し、もっと内部が脆弱になるという、免疫システムの弱体化を語っていますが、本書ではイエスの方舟事件でその辺のことに触れています。
 千石イエスと名乗る中年の男が、年若い娘を含む26名の集団で2年あまりも逃避行を続けた事件が「イエスの方舟事件」です。マスコミや「被害」家族によって、千石イエスは淫祠邪教の教祖に祭り上げられ、排撃されることになります。しかし実態が明らかになったところ、千石イエスはその女性たちと性的関係もなく、女性たちも自らの意志で家族を捨てて、千石に従ったことがわかったのです。ここでも「イエスの方舟」のことが分からなければ分からないほど、排除の物語はエスカレートして創出されていく構造が見えます。また、先頭を切って、「娘を返せ」と叫んでいた家族が、実は家と親の体面の論理を押しつけて娘を追い詰め、千石イエスの元へ走らせてしまったということが分かってくるのです。ここではもう家族が共同体としての力を失い、共同生活を送る擬似家族としての「方舟」に敗北しているのです。筆者は家族というものが自明の存在ではなくなっているのではないかと考察しています。
「なかば惰性のように家族という場に円陣をなしつつ座してはいるが、円陣の中心には統合の象徴たるべきもの、たとえば、祖先を祀る神棚あるいは父なるものは存在しない。それゆえ、円陣を離脱してゆく者をひきとめる根拠はひどく稀薄である。家族は外部なる世界からかぎりなく侵蝕されながら、しだいに情愛という位相に還元されつつあるのかもしれない。情愛を失った者はさほどの執着心も覚えずに、家族の円陣から身を退き、離れ去ってゆく。」
 鷲田清一は「他者」に出会うことによってしか、〈わたし〉を発見することはできないと言っています。しかもそれは、その都度コンテクストの中で確認されるものであって、確定した自明のものではないと言っています。それなのに、他者との接触を回避しようとする現象ばかりが横行していると。
 現代日本の妙なナショナリズムの高まりや、外国人排斥の運動などを見るにつけ、『排除の現象学』の方法論は「残念ながら」今こそ有効であると言わねばなりません。