ファウスト

新訳決定版 ファウスト 文庫版 全2巻完結セット (集英社文庫ヘリテージ)
 休みに入ったので、まとまった時間で名作を読むことにする。訳者の池内紀が第二巻巻末で述べているとおり、「有名な名作であれば、たいていの人が名前を知っている。そしてたいていの人が一度も読んだことがない」からである。名作と呼ばれるものはたいてい長くて難解なものが多いが、戯曲はとりわけ手を付けにくい。原語が美しく韻を踏んだ気の利いたしゃれに満ちているからだ。それなら原語で読めばいいのだが、そこまでの語学力がないので翻訳に頼ることになる。そうするとしゃれや韻は味わえない。意味の取りにくいだらだらした詩句をひたすら読むことになる。訳者の池内氏はその辺をよくわかっているのか、第一部巻末で次のように述べている。「……しかしながら翻訳すると、ゲーテがドイツ語で苦心した一切が消えてしまう。韻律が乏しく、まるきりべつの構造をもった日本語にあって、詩句を踏襲しても、はたしてどのような再現ができるだろう。詩句をなぞるかわりに、ゲーテが詩体を通して伝えようとしたことを、より柔軟な散文でとらえることはできないか。いまの私たちの日本語で受けとめてみてはどうだろう。そんな考えで、この訳をつくった。」そういうわけで、この「ファウスト」は小説のように読める。宮澤賢治オノマトペの豊穣さや、谷川俊太郎の詩であえてすべてひらながにしている面白さや、詩歌における掛詞がたぶん翻訳不可能であるのと同じだろう。
 ファウスト博士が学問を究めながら、年老いて退屈で何も楽しみを見いだせない姿には、超高齢化社会の日本の孤独な高齢者と重なって見えてくる。幸福が何であるのか、若い時には自分の学問が認められることや、地位が高くなることや財産が増えることなどが成功だったと思うが、それらを手に入れているように見える晩年の博士は幸福そうではない。そこに悪魔メフィストフェレスがつけいる隙がある。悪魔というからにはもっと無制限に魔法などが使えるのかと思えば、人間に知恵を貸したり、そそのかすくらいで、実行するのは人間である。メフィストフェレスファウストから依頼されて実行する場合にも、普通の人間のようにするばかりなのが面白い。第一部で誘惑される処女グレートヒェンにしても、相当に手間をかけ、普通に女の子を口説くのとそう変わらない。この辺が妙にリアルである。魔法の力であっという間に虜にしましたということなら、話は簡単だが詩にはならない。
 第二部はとても読みにくかった。第一部とどう繋がっているのかがわからないし、ファウスト博士は現実にはどこにいるのか、夢なのか、わかりにくい。ファウストよりもメフィストフェレスの方が魅力的に立ち回っている感じがする。最後の最後で現実的な場面に戻ってきて、ファウストが契約の言葉を口にして死に、天使たちがメフィストフェレスを出し抜いてファウスト博士を天国へ連れていく。そこにはグレートヒェンまで天使のような姿で出てくる。これには少し驚いた。こういう形でハッピーエンドなのか?と。「協同の意思こそ人知の至りつくところであって、日ごとに努める者は自由に生きる資格がある。どのように危険にとり巻かれていても、子供も大人も老人も、意味深い歳月を生きる。そんな人々の群れつどう姿を見たいのだ。自由な土地を自由な人々とともに踏みしめたい。そのときこそ、時よ、とどまれ、おまえはじつに美しいと、呼びかけてやる。」というファウスト博士は冒頭の孤独な老人とは違う、大勢の中の一人として、人々の一人として協同する幸せをかみしめている。そういう意味でファウスト博士の二回目の晩年はより優れたものとなったと言える。しかし、罪のない処女を誘惑して堕落させ、母親を殺させ、兄をファウスト自身が殺し、嬰児を殺させ、グレートヒェンは処刑される。最後の多くの人に「協同」の場を提供する干拓地を完成させるために、立ち退きを拒む、菩提樹のそばに住む老夫婦を殺害する(殺害はファウストの意思ではなかったにしても)。このような罪を犯しても神はすべてを赦すということなのだろうか?釈然としない幕切れである。私の経験が不足しているだけなのだろうか。