ガラス玉遊戯

ヘルマン・ヘッセ全集 (15)ガラス玉遊戯

ヘルマン・ヘッセ全集 (15)ガラス玉遊戯

 ヘルマン・ヘッセの最後の長編小説『ガラス玉遊戯』。新潮文庫に入っているヘッセの小説はたいてい読んでいましたが、この『ガラス玉遊戯』はあまりに長大な作品です。以前から読んでみたいと思っており、今夏ついに挑戦することができました。今回、臨川書店の『ヘルマン・ヘッセ全集 15』により、読みました。
 この作品は、利発な少年ヨーゼフ・クネヒトがガラス玉遊戯名人となり、さらに没するまでを描いた伝記になっています。舞台の設定がユニークで、近未来が想定されています。ヘッセがこの作品を書いていた頃はナチスが政権を担当し、ユダヤ人が虐殺され、第二次世界大戦が行われていました。ヘッセはスイスに亡命中でした。そうした記述は作品中には見られませんが、この作品の舞台では、大きな争いの時代が終わって、一部の心ある精神的な人々が理想郷として創ったのがカスターリエンという街であるとされています。そこではガラス玉遊戯という総合芸術のようなものが至高の学問・芸術として敬意を払われている高度に精神的な文化を育む土地なのです。カスターリエンの外には現実の世界があり、そこでは物質的な経済活動が変わらずに行われ、カスターリエンを経済的に支えています。カスターリエンの人たちは修道僧のようにひたすら学問的なもの、精神的なものを求めて生きていけるようになっています。カスターリエンは厳密な階層社会で、上位の決定機関には数名のマギスター(名人)が就いています。とりわけマギスター・ルーディ(遊戯名人)は最も尊敬をされる職であり、カスターリエンの精神的な支柱です。カスターリエンには国中から集められたエリートが集まっています。優れた生徒たちが上級の学校へ引き抜かれ、さらにその中でも最も優秀な生徒のみがカスターリエンに行くことができます。
 ヨーゼフ・クネヒトは少年時代より優れた資質を持つ生徒としてカスターリエンの上層部の目に留まっていました。ある時やってきたマギスターの一人である音楽名人と出会ったクネヒトは、音楽の魅力と音楽名人の魅力にすっかり魅せられてしまいます。この音楽名人はクネヒトが大人になり、マギスターとなった後も常にクネヒトを導く師として音楽名人の最期の日まで、クネヒトの道を示し続けます。
 カスターリエンが存在するこの近未来においても、カトリック教会は存在しています。多くのカスターリエン人は宗教に懐疑的です。ダラス玉遊戯は極めて宗教的であるにもかかわらず、あるいはそうであるがゆえに、同じくヒエラルヒーが存在し、同じように精神的な生活を送っている二つは疎遠な関係にありました。クネヒトはこのカトリックの修道会にしばらく滞在し、ここで尊敬するヤコーブス神父に出会い、師事します。ヤコーブス師から教えられたことで大きなことは、カスターリエンの歴史認識の欠如についてです。カスターリエンは過去のほぼ完成された芸術の再現をその様式に則って行っていますが、創造的な面は少なく、また、今こうしてできているものがなぜこのようであるのかということを歴史的な文脈で理解しようとはしません。カスターリエンの外のことに無関心なのです。
 クネヒトはマギスターとして比類のない名声を博しますが、だんだんカスターリエンのあり方に疑問を抱くようになります。そこにかつての友人であり、今はカスターリエンの外の世界で有力者となっているデジニョーリが現れます。デジニョーリは仕事でカスターリエンにやってきたのですが、クネヒトは外の世界に学ぶべきことがあることを感じ、デジニョーリを通じて外への脱出を試みます。マギスターとしての地位を捨ててカスターリエンから去ることは前例のない狂気のように周囲の人々には思われますが、クネヒトはカスターリエンを去り、デジニョーリの家にやってきます。クネヒトはデジニョーリの息子、ティートの教育を任されていました。ティートは様々な学校で問題を起こし、家でも好き勝手をし、手に負えない少年になっていました。クネヒトはしかしティートの心を開かせ、別荘で共同生活を送る提案を受け入れさせます。しかしこの共同生活の二日目、つまり別荘についた翌日、ティートが湖に飛び込んで泳ぐのに続いて飛び込んでクネヒトは死んでしまいます。
 私はこんな長大な物語なのに、何てあっけない終わりなのだろうと驚きました。教育にたぐいまれな才能を持つクネヒトがティートを様々に教育していく様子が描かれていくのかと思っていたのに。しかしよく読んでみると、クネヒトは「少年の尊厳と友情、その魂を得ることを目指して戦っているのだ」と死を予感しながら冷たい湖に飛び込んでいるのです。そして最後の段落。少し長いが引用してみます。
 ああ、なんてことだ、あの人の死は僕のせいなのだ!そう思うと彼は愕然とした。自尊心を守る必要も、抵抗する必要ももはやなくなった今になって初めて、驚愕した心の悲しみのうちに、自分がすでにこの人をどんなに愛していたかを感じた。そして、どう抗弁しても名人の死には自分も責任があることを感じながら、この責任が、自分自身と自分の人生を造り変え、今まで自分が自分に求めていたよりはるかに大きなものを、自分に要求するであろうという予感に襲われて、神聖なおののきを覚えるのであった。
 この最後の段落を読めば、クネヒトのティートへの教育はすでに行われていることがわかります。ティート少年はこの時、クネヒトが湖に飛び込む前に身につけていたガウンを身にまとって以上のような感慨を抱いているのです。ティートはクネヒトの意志を継ぐ者としての使命を帯びていると言えるでしょう。
 このように教育というのは卓越した人格による強烈な一撃によってその人の人生を生涯にわたって決定づけるもののようです。思えば音楽名人とクネヒトの出会いがそうでした。一地方学校の生徒に過ぎなかったクネヒトに音楽名人がほんの短い時間合奏をしてくれる、そのことでクネヒトの人生は決定してしまったのでした。
 『ガラス玉遊戯』はこの後、ヨーゼフ・クネヒトの遺稿として、「生徒時代および学生時代の詩」と「三つの履歴書」という小説を載せています。この三つの履歴書「雨ごい師」「聴罪師」「インドの履歴書」はクネヒトが学生時代に課せられた作文で、虚構の自叙伝です。しかしここまで読み進めてきた者とすると、これはヨーゼフ・クネヒトの輪廻転生した姿とも読めます。「クネヒト」には「仕えるもの」という意味があるそうです。この三つの履歴書でもそれぞれ「仕えるもの」という意味の名を持つ人物がそれぞれの時代で生きています。ルーディー・マギスター、ヨーゼフ・クネヒトにも通じるすべての履歴書の人物のお話は師と弟子の話です。師に仕える弟子が成長して自分も弟子をとるようになり、師から教わったことを伝承していく。師となった「仕えるもの」はもっと大いなるものに仕えています。そしてこれも共通しますが、師の理解者は弟子しかおらず、周囲の人たちから敬意を示されつつも、本当のところでは理解されていないということです。マギスターであったクネヒトはカスターリエンの精神を最も体現する人物であり、最高位にありながら、それゆえにカスターリエンの限界を知り、カスターリエンから立ち去ってしまいます。そのことを同僚の優れたマギスターたちも全く理解することができません。すでに「生徒時代および学生時代の詩」に書かれているように、クネヒトは踏み越えていく者なのです。どこかに安住しているのではなく、先へ先へと踏み越えていくのです。「伝記」の中でクネヒトが不意に自分の若い頃の詩を思い浮かべ、カスターリエンから出ていく決意をする場面があります。少年の日に作った詩が老境にさしかかった自分の背中を押していくのです。ここにクネヒトの精神的な健全さ、若さがあります。そしてそれはヘルマン・ヘッセの若さです。最晩年に書かれたこの作品に溢れる瑞々しさは本当に美しいです。何度も表現される自然の描写などは、そしてその自然に感動する少年の感性などは、老年のそれではあり得ません。そしてそうでありながら、ヨーガ行者のような、聖人のような悟りきった静けさがあります。クネヒトの師である音楽名人の晩年はほとんど精神的な存在となってしまった名人の温かさが描かれています。ほとんど話すこともなくなった師はクネヒトに音楽の美しさ、芸術の美しさを伝えます。優れた教育者だった名人はクネヒトに言葉にはできない体験でその精神を伝えて世を去ります。とても美しい場面です。