獣の奏者エリン

 上橋菜穂子の名前は以前から聞いていて、いつか読みたいと思っていました。『獣の奏者』シリーズを読み始めた時、もっと早く読んでおけばよかったと後悔しました。自分が読みたい小説はこんな小説だったよなと思ったからです。読み始めてすぐに、この人の作品はアーシュラ・K・ル=グィンに似ていると気づきました。上橋菜穂子のエッセイも2冊読んだのですが、この推測は間違っていなかったようです。『指輪物語』に並んで『ゲド戦記』が上橋氏が夢中になって読んだ作品に入っていたからです。また、アボリジニの研究者という点でもル=グィンに通じるところがあります。ル=グィンは親がネイティヴ・アメリカンの研究者です。そうであるからか、ふたりの作品には反権力的なまなざしが強く感じられます。周辺に追いやられた者、公の文明から軽んじられている口承伝承などが作品中に頻出し、上橋氏の学者としての経験や知識が生きています。
 『獣の奏者』の物語を推進していく力は主人公であるエリンの探究心です。しきたりだから、昔からそうしているから、規則だからというような枠にとらわれず、自分の目で確かめて発見していく様子が描かれています。そのことが何百年も前の秘密を明るみに出してしまいます。それは歴史をねじ曲げてでも災厄を防ごうとした先人の知恵だったのですが、真実の探究者によってすべて明らかになってしまいます。この辺りを読んでいると、上橋氏は優れた学者でもあるんだろうと想像されます。エリンは探究心に取り憑かれて真実に到達しますが、それは権力者から見れば有益であり危険でもあることでした。エリンはそこから政治に巻き込まれていきます。家族をも利用してエリンを抱え込もうとする権力、優れた知識と技術を持つがために意に反して権力者に利用されてしまうエリン。しかしエリンは強かに権力者も利用しながら、自分の信念を貫いていきます。『獣の奏者』は『ゲド戦記』よりさらに複雑です。『ゲド戦記』は個人の内面に焦点があたっています。王も王国も出てきますが、政治力学にゲドが巻き込まれるというような部分は少ないかほとんどないです。『獣の奏者』ではこれが真実でこうすればうまくいくのに、権力者の既得権やら対面やらのせいでなかなか前に進まなかったり、主人公や家族が命の危険に陥ったりします。とても現実的なのです。エリンは圧倒的な力を持った超人ではありません。普通の女性です。結婚し、息子を育て、最後は家族のために生きていきます。そうしたことと壮大なファンタジーの世界が違和感なく溶けあっています。上質なファンタジー小説とはこういうものでしょう。細部にリアリティがあり、ファンタジーだから何でもありのようなところはありません。
 『ゲド戦記』の話ばかりしていますがもう一つ。師の存在です。ゲドにはオジオンという師がいました。ゲドの命を救ってくれた、寡黙で孤独で愛情ふかい師です。エリンにも命の恩人である蜂飼いのジョウンがいます。その学びの初めに優れた師に出会った人は幸運です。オジオンもジョウンももともとはアカデミックな世界に身をおいていた人物ですが、世俗を離れて山に住んでいます。こういう賢者に育てられたゲドやエリンは真実を曇らせる無用な力に振り回されずに突き進んでいきます。それは真実への道なのですが、孤独な道でもあります。世間を敵に回しかねない思想です。しかしそうした異端者からしか新しい世界は開いていかないのかもしれません。