セラピスト

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 ノンフィクション作家最相葉月(さいしょうはづき)さんが臨床心理の現場を丁寧に取材し、また自らクライエントになって体験したことを交えながら描いた作品です。
 カウンセリングの現場は基本的に密室で行われるカウンセラーとクライエントのきわめて個人的なやりとりですから、そこで何がされているのかは部外者にはうかがい知ることができない。また、心が病むとか、心が癒されるというのはどういうことなのか、それが学問として成立し、学びの対象となって、スキルとして身につけることができるとはどういうことなのか、考えさせてくれる内容です。
 日本の臨床心理学を牽引してきた中井久夫河合隼雄河合隼雄氏については筆者が直接に取材しているのではなく、息子の河合俊雄氏への取材や著書からの引用)を中心に取り上げながら、日本の心理学会が歩んできた歴史についてとても丁寧に、そして単なる年代の記述ではなく、どのような空気であったのかまで伝えようとしてくれている。特に中井久夫には神戸の自宅に通いながらお話を聞き、最相氏が中井久夫風景構成法を行い、二人で語り合うという試みもしている。
 箱庭療法について、一般向けの書物でこれほど充実した記述のある本はそうそうないのではないだろうか。木村晴子氏が箱庭療法を施した、中途失明者伊藤悦子氏のケースや、五年間ほぼ同じ箱庭を作り続けた自閉症のY君のケースは、箱庭の可能性を雄弁に語っている。カウンセラーは何も指示したりせず、ひたすらクライエントが箱庭を作ることに関心を持って寄り添う。ただそれだけ。しかしそのそれだけによって人が回復していく。箱庭を見るとさまざまな解釈ができるらしいけれど、そういうものばかりが有名になってしまって、「こういう所にこういうモノを置いたから、○○だ」というような安易な判定をすることは危険であるという。この辺は夢の解釈にも似ている。日本でも一時期ユングとか、夢とかがまるで占いか何かのように流行ったことがあったが、あの時も画一的に「夢にこういうことが出てきたら○○だ」ということがさかんに言われていた。しかし人間がそれぞれ違うように、夢に出てくる現象や箱庭でもみんな違うのだ。
 箱庭は河合隼雄が亡くなってからあまり流行らないらしい。また、精神科受診のハードルが下がって受診者が増加する中で、かつてのように一人のクライエントに何時間も何年も時間をかけることはできなくなっているとか。また、本書では後半に書かれているが、DSMというアメリカの診断法が日本にも導入されて以来、精神疾患の診断が機械的になり、治療のための薬の処方も機械的にできるようになり、時間は大幅に短縮できるようになった。心の問題は難しく医者によって診断はまちまちだったし、その意味では進歩かもしれないが、一人一人に向き合う時間は少なくなった。
 本書を読んでいて思ったのは、どういう分野でも第一世代はいろいろなことができるということ。後に続くものは第一世代の持っているものをより使いやすくしたり、詳しくしたりしているが、第一世代が持っていた幅がない。それはたぶん言葉で伝えきれないところがあるからなんだろうと思う。河合隼雄の著書を読むと、とにかく彼は自分が何か「こういうことだ」と書いたあとにその言葉を否定するようなことも書いている。そういう矛盾をはらんだ存在が人間というものだと口を極めて言っている。河合隼雄は大きすぎてたぶんちゃんと理解されていないのだろう。個人的には最晩年に文化庁の長官に就任し、「心のノート」の監修にも携わったりして、どうしたんだろう?迷走しているなと思ったのだが、実は何か深い考えがあったのかもしれぬ。食えないおっさんである。