何事にも時がある

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

教師のためのからだとことば考 (ちくま学芸文庫)

教師のためのからだとことば考 (ちくま学芸文庫)

 著者の竹内敏晴氏は、幼い頃に耳を患い、聾唖者として長い時間を過ごされました。健常者があたりまえと思っている、話す、とか聞くということを外側から観察し、意識的に身につけてきたため、かえってはなすや聞くが、よくわかるのでしょう。『ことばが劈かれるとき』は、竹内氏の自伝的な内容が半分、演劇に出会って、からだ全体できく、はなすということを理解して、実践していったのが、半分、治療としての応用が半分というような構成です。「劈」は、「ひらく」と読ませていますが、「つんざく」と一般的には読みます。まさにつんざくようにことばが発せられるということでしょう。
 ちょうど、私自身がからだに興味を持っている時期なので、とても面白かったです。この本は誰がいつ読んでも面白いと思いますが、やはり読書には「時」があります。書かれている内容が理解できるに必要なだけの経験もあるし、興味が向いているかどうかもあるし、その時の心理状態もあります。こころとからだの二元論がいよいよ嘘くさいと感じている最近、鷲田清一の著書から教えてもらって読んだ竹内敏晴は共感できるところが多かったです。
 「話しかけのレッスン」の話が何度か出てきますが、自分が誰かに話しかけているつもりなのに、声が相手に届いていない、向こうへ行ってしまう。届きそうになったところで引き返してしまうなど、とても面白いし、自分もそういうレッスンを受けてみたいと思いました。頭で考えてわかったつもりになっていることが多いのですが、頭よりも先にからだが反応している、あるいは頭で考えていることと逆のことをからだがしていて、そちらの方が、本心であるという、自分でも気がつかない自分の心をからだが教えてくれる事例がいくつも紹介されていて、興味深かったです。
 確かに心理的に負担になることがあると、からだのどこかが凝ったりするものです。しかし頭で考えることに慣れているので、そこで解決しようとしてしまう。そこから悪循環に陥るのでしょう。もっとからだの声を聞いて、からだに任せてしまえば、楽になることも多いと思います。からだが回復すれば、こころも回復します。その二つを対立的にとらえたり、あたまの方を優位にとらえたりする時に、バランスの悪化が生じるのでしょう。
 教育に関してたくさんの示唆的なことも書いてある本書。本気でこの理念が生かされるような学校ができれば、だいぶ子どもも大人も楽に生きていけるだろうと思います。