こんな人がいる。

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

 人間社会の組織の解読に、タテのつながりとヨコのつながりという概念を用いて、明快な説明を加えた一書です。
 タテ意識の強い日本の社会では、親分子分の関係で組織が作られているため、派閥ができやすい(党内党)。リーダーとの関係は個人的・親密さによって結ばれているため、気心の知れた直属の上司でなければ言うことをきかない。組織のトップの命令であっても、部下の属する部署の上司でなければ部下を動かせない。まして他の部署の長が、他部署の部下を動かすことなどできない。
 タテ社会の関係は「家族ぐるみ」の関係を強要する。また、同期の中で突出して出世することはできない。まして下の世代が上の世代を追い抜いたりはしない。もちろん出世頭はいるし、その人が上の世代を追い抜くことはあるが、上の代の出世頭を追い抜くことはない。
 タテ社会の関係はウチとソトを明瞭に区別する。「ウチの会社」という言い方に端的に現れる。したがって、ソトから引っ張られてきた有能な上司がうまく部下を使うことは困難である。また、しばらくソトに転勤などになって帰って来ても、よそよそしい態度をとられ、なかなか元のようには馴染めない。
 ヨコの組織とは、資格によってつながっている組織である。特定の技術集団とか、学会のようなつながり方である。そこでは上も下もなく、自由な意見交換が行われる。著者はしばしばインドのカースト制度を例に挙げている。インドではカーストのつながりはあり、そこでも助け合いは日本とはまったく違い、ウチ・ソトのような場に支配されないという。日本では他家から嫁いできた嫁と姑の争いが、家のソトまで持ち出されることはない。嫁は孤軍奮闘しなくてはならない。家のタテ組織の新参者として。しかしインドでは同じ立場にある(同じ資格をもった)人がそれぞれ(嫁には嫁、姑には姑)の加勢があるという。そのような社会では、運動体に属するにしても、あちこちの組織に同時に加盟することもよくあることで、相反する理想を掲げる集団に同時に属することもあるという。日本では、裏切り者扱いされる。タテ社会では同時に一つの組織にしか所属できないし、一人のボスや師にしかつけない。これは日本の社会制度の形から導き出されている状態であって、それを「日本人は義を重んじる民族だ」などと言う人がいることを著者は批判している。
 ヨコ組織では、ルールがまずあって、それに賛同する人々が同一資格で入っている。上司・部下というのも契約によるのであって、流動的なものである。著者は日本の軍隊と米英軍を比較して、小隊長が戦死した場合、日本軍は烏合の衆と化してしまうが、米英軍はすぐに次の小隊長を立て、規律が守られることを挙げている。また、学術調査隊などを組む場合、日本では「○○大学○○調査隊」のような形で、同じ研究室のよく知ったメンバーで集まり、年老いた教授(能力は問わない)をリーダーにした時にうまくいくという。どんなに予算が少なくても、「○○先生のために」と努力して成果を上げられる。ヨコ組織の社会では、リーダーは有能な人で、その人が目的に必要だと思う人を集めてパーティを組む。したがって、初対面の人もいるし、リーダーより部下が年上ということもある。しかし、リーダーの命令は絶対で、契約期間中はルールが優先される。日本人でこのやり方をすると、必ず対立と分裂が起こり、うまくいかない。「それなら、おれは辞める」などという脅しや本当に離脱することなどが日本人にはよく見られるという。
 著者は日本には契約の概念がそもそもないと指摘している。論理やルールよりも感情が優先されるため、一神教の神概念も根づかないし、批評や、哲学も育たないとしている。先輩の書いた本はけなさない。学会であっても自分の先生の説を批判したりしない。客観的な批判精神などはなく、正当な批判に対しては感情的な報復が待っている。
 確かに、キリスト教の教会でも、「わたしは○○先生に洗礼を受けた」と誇らしげに語る人は少なくない。これなどは典型的なタテ社会的発想だろう。
 それではタテ社会のリーダーは絶対的な力を有しているかというとそうではない、むしろ、タテ社会のリーダーは感情的に部下を手元に置いておくために気を遣い、温情をかける。そのための終身雇用制度である。この社会では有能な部下が上司の仕事を肩代わりし、上司の代わりに実質的な権力を握ることもまれではないという。形の上で立てておけば、役職の垣根を越えたふるまいが許される。逆にヨコ社会では越権行為は絶対に許されない。したがって日本では能力主義というのは根づかない。基本的に誰でも頑張ればできるという前提に立ち、どんな無能な人でも長く勤めれば自動的に役職があがり、ポストが回ってくる。それでも運用できるシステムができあがっている。
 筆者の目の付け所が面白いのは、近代化によって西洋の考え方が入ってきて、ムラ社会的なウチソト意識が古いものになったという考えを退けたことだ。外側の形は変わっても、基本的に何も変わってはいないことを明快に解読している。
 また、ゲマインシャフト(共同社会。成員が互いに感情的に結合し、全人格をもって結合する社会。血縁に基づく家族、地域に基づく村落、友愛に基づく都市など。人類の歴史はゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ進むという)ゲゼルシャフト(利益社会。成員が各自の利益的関心に基づいてその人格の一部分をもって結合する社会。成員間の関係は表面的には親密に見えても、本質的には疎遠である。大都市・会社・国家など)という概念で日本社会を説明しようとするそれまでの社会学の批判し、日本社会を説明するのに適当な概念を抽出してみせたところにある。筆者自身言うように、この概念は日本だけに該当するものを目指したのではなく、抽象度を高めて書いたとのことである。
 筆者は触れていないが、こういう角度で見られるのは、筆者がロンドンで客員教授をしていたことの他に、女性であることも大きな要因ではないかと思う。
 ちなみに著者は1926年生まれであり、この本は1967年に書かれている。しかし全然古びた感じはしない。
 この本は、ドラッカーの『マネジメント』に紹介されていました。日本の社会のことを知るにはこの本がよいと書かれています。ドラッカーの目の付け所もさすがだと感心しながら、外国人に日本のことを教えられている自分は勉強不足だと思いました。