チップス先生さようなら

チップス先生さようなら (新潮文庫)

チップス先生さようなら (新潮文庫)

 イギリスのパブリックスクールの教師を長年勤め、退職後も向かいの家に住み続けて生徒を招き、お茶会をしたり新任教師を招いて話をしたり、卒業生の訪問を受けたりしている老チップスは、パブリックスクールでの教師生活を楽しげに回想する。
 若い頃は生徒になめられないように厳しく指導していたが、結婚を境に人格的な円熟味を増してきて、生徒たちから尊敬されつつ好かれる教師になる。チップスを変えてくれた妻は出産を機に母子共に亡くなってしまう。チップスはその後も教師として円熟し、その存在はほとんど伝説のようになっていった。もはやブルックフィールド校の昔を知っている人間はチップスだけになり、卒業生の子や孫もチップスの教育を受けている。チップスは自分が管理職などに上るタイプではないことを知っている。新しい教育法などに手を出さず、もう使う者もいないラテン語や古典の授業を受け持っている。チップスの特技は生徒の顔や名前を覚えることで、退職したあとも新しく入ってきた生徒の名前も顔も覚えている。
 チップス先生の面目躍如とする場面は、新しくやって来た優秀な校長がチップスを辞めさせようとする場面だろう。学校で教えるべきことは役に立つこと、何らかの技能を身につけさせることであるという方針を持っている新校長は、チップスの古色蒼然とした授業は許しがたかったのである。しかし生徒たちは格式張らず、しかしきちんとした教師でもある、冗談好きなチップスを愛していて、校長に対して猛抗議、チップスを擁護した。そして校長が他校に「栄転」となったのであった。
 チップスは息を引き取る前に、周囲の人たちがチップスには子どももいなくて…という話をしているとき、ふいに目をあけて言った。子どもはたくさんいる、男の子ばかりだがね。
 しっとりとしたいい作品です。教師の仕事は時代によって変わっていく部分もあるが、変わらない部分もある。チップスはどの時代にいても愛される良い教師だろう。

苦しい本

 金時鐘の半生を綴った本です。中心になるのは、済州島で起きた「四・三事件」と呼ばれる大虐殺事件です。私自身が戦後の韓国の歴史に不案内なため、読んでもわからない部分が多いのですが、日本が戦争に負けて、朝鮮半島が解放されてからの歴史について、少なくとも当時の日本人の子孫である私は知っておくべきことだと思いました。現在私が住んでいる大阪市は在日の方がたくさん住んでいて、その遠因は日本が朝鮮半島を植民地としていたことにあることは知っているのですが、では、植民地とは何なのか、あるいは自分の国が植民地となるとはどういうことなのかと問われると、私には分からなくなってしまうのです。この本を読んで何かが分かったわけではなのですが、いくつかはっとするところがありました。
 「私には自前のことばで唄う童謡、わらべうたが一つもありません。誰しもが至純に想い起こすべき、幼い日の歌がないのです。歌ごころにあるのはみながみな、日本の歌ばかりです……その数ある歌がなつかしい歌となって、私の体のなかに沁みついてしまっているのです」という金時鐘の言葉には恨み言めいた口調はありませんが、何とも罪深いことを日本という国は行ったのだろうと思わされます。
 日本人になれと教えられ、それに純粋に応えようとした金少年、教育の力、その恐ろしさを感じます。朝鮮人である自己を語る手段として日本語を基本に持ってしまった人は、その引き裂かれるような気持ちをどうしたらよいのでしょうか。解放時に済州島の方言しかしゃべれず、ハングルは一文字も知らなかった少年が。金時鐘はしかし今も日本語で詩を書いています。金時鐘は最後の方でこのように書いています。
「〈在日を生きる〉という、日本で生きてゆくことの命題にも行き着くことができました。日本という“一つどころ”を同じく生きている在日朝鮮人の実存こそが、南北対立の壁を日常次元で超えられる民族融和への実質的な統一の場である、というのが在日を生きる私の命題要旨です。」
 金時鐘は殺戮の島から脱出し、日本へ渡り在日として生きていきます。北朝鮮への希望を抱き、それが幻想に終わる。朝鮮戦争で日本は米軍の基地となり、朝鮮半島へ殺戮機械をひたすら輸送する。日本のあちこちで朝鮮への武器や弾薬の輸送を食い止めようと体を張って妨害した事件がありました。大阪の吹田事件は有名です。この本でも吹田事件のことに触れています。貨物列車を止めるために線路の上に体を横たえ、数珠つなぎになった人たちのことなどを描写しています。
 アメリカは朝鮮半島を日本の支配から解放した解放者として入ってきますが、すぐに追放されていた親日の元官僚たちを元の職に就けて日本統治時代と変わらない状況を作ってしまいます。反共の嵐の中で大虐殺が行われます。朝鮮戦争が始まり、朝鮮半島は分断されます。朝鮮半島がなければ分断されていたのは日本列島でしょう。そのことが書かれていなくても浮かび上がってきます。日本は朝鮮戦争での特需で一気に景気を回復していきます。この日本史の教科書にも載っていることがらの裏でどんなことが起こっているか、知らずには済まされないでしょう。戦争責任という場合、もちろん政治的な、法的なそれがあるでしょう。しかし倫理的な側面を考えた時に、日本はやはりうまくやりすぎたと思います。やはり朝鮮半島への植民地支配とその後の一人勝ちの様子は、「ちょっとそれはないんじゃないの?」と言いたくなると思います。

子供を殺してくださいという親たち

「子供を殺してください」という親たち (新潮文庫)

「子供を殺してください」という親たち (新潮文庫)

衝撃的なタイトルだが、これは筆者が精神障害者移送サービスの業務に従事するなかで実際に親から言われた言葉だという。
 本書には筆者の関わったさまざまなケースが生々しく語られ、事実に基づいているからか、迫力がある。また、精神保健関係の法規やシステムも詳しく解説されているので、現在精神保健分野で困っている人は読むとよいと思う。どこに相談に行ったらよいか、どのような公的支援が受けられるのかなど、知らないことが多い。
 いわゆる不登校から引きこもりになるというケースは学校現場にいる私も人ごとではないのだが、学校の場合生徒が転・退学してしまったり、卒業してしまったりするとなかなか連絡を取ることはできない。いまやそうした人たちが中年にさしかかり、親が高齢者になっている。そういう中で子どもが親に暴力を振るったり、お金を無計画に使ってしまったりなどというケースがあり、しかしながら犯罪を犯しているわけではないので警察もある程度以上は動けず、精神病院に入るほどでもないという人の場合、引き受け手がなく、家族がひたすら耐えるしかない。また、精神保健福祉法の改正によって、入院は3ヶ月が限度となった。治療の見込みのない患者は病院では預かってくれない。
 筆者の立場は最終章とあとがきに明確に語られています。問題を抱えている子どもは、発達上の障害などを抱えている場合もあります。また親からの過剰な期待につぶれてしまった場合もあります。いずれにしても親が子どもに向き合って問題をともに解決して行く方向に向かうことを進めています。

敗者の語る歴史

天平の女帝 孝謙称徳

天平の女帝 孝謙称徳

孝謙称徳天皇は日本史上唯一の皇太子から帝になった女性天皇です。古代には女性天皇は何人か現れますが、そのほとんどは男性天皇が位を継ぐまでの中継ぎの役割でした。女帝の中では何といっても持統天皇が有名ですが、彼女もやはり息子の草壁皇子が早世してしまったために、孫の軽皇子が大人になるまでということで位に即かざるを得なかったのでした。しかし孝謙天皇はそうした中継ぎではなく、聖武天皇の後継者として指名され、位に即いています。藤原仲麻呂を重用し、仲麻呂は反乱を起こし、その後道鏡を重用して天皇位を譲ろうとした帝として日本史には出てきます。和気清麻呂が宇佐八幡に神託を聴きに行き、道鏡天皇になることは阻止されます。
 ここまで書いたことは主に『続日本紀』に書かれている記述に基づき、日本史の教科書にも載っている史実として語られていることです。しかしこの小説では、清麻呂の姉、広虫が語り手となって、女帝の「真実」を語っていきます。広虫は女帝を支え、腹心の部下として活躍しますが、道鏡事件において、弟清麻呂に神託を聴きにいかせ、女帝の思惑を挫いたことによって島流しになってしまう。物語は女帝が亡くなり、広虫は都に呼び戻されるところから始まります。広虫が都にいないうちに女帝は亡くなり、世の中は藤原氏の時代に入りかけています。再び男の政治の時代がやってきています。広虫は女帝の時代を回想しながら、仲麻呂の乱道鏡事件の真相を探っていきます。そしてそれが男達によってどう書き換えられ、「正史」として綴られていくのかも。再び女に権力を握らせないために万全の体制を築こうとする藤原氏広虫はそれに抵抗するのではなく、時代の移り変わりを見ながら、女帝が本当に目指そうとした男女同権の世の中を読者の前に描いていきます。現代へのセッメージ性の高い歴史小説です。

18歳からの選挙

18歳からの選挙 Q&A

18歳からの選挙 Q&A

  • 作者: 服部進治,沖村民雄,杉浦正和,若菜俊文,安達三子男,全国民主主義教育研究会
  • 出版社/メーカー: 同時代社
  • 発売日: 2015/09/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログ (1件) を見る
 満18歳での選挙権は、憲法改正論議にまつわる、国民投票法に関連する形で出てきた。しかし、成人を18歳とする論議は置き去りにされたままである。この18歳選挙権憲法改正につながる形で利用されるだけにしないようにしなければならないだろう。
 本書は全国民主主義教育研究会が編纂している。執筆者は現役の教師や退職した教師が主に担当しており、現在現場で実践している例なども紹介されてい手大変わかりやすい。また、現実問題として直面しそうな課題についても詳しく解説している。たとえば、満18歳というと、主に高校三年生クラスの中に選挙権を有する者と有しない者が混在するという中で、公職選挙法に照らしてどのようなことが違法とされるのかを具体的に説明している。ツイッターで自分の応援する候補者について有権者がつぶやく場合には構わないが、それにリツイートすることができるのは有権者だけであるとか。自分の身内が立候補した場合に、投票を求めて同級生(有権者の)にハンバーガーなどをおごることは、買収罪にあたる(もらう側も有罪)とか。
 また、本書では政治や選挙のしくみについてわかりやすく説明がある。さらに直近の選挙で争点になりそうな話題について6つにしぼって解説している。1.消費税、2.景気対策 3.原発 4.沖縄の基地問題 5.集団的自衛権 6.憲法改正 加えて、若者が現実に直面している課題として、ブラックバイト・ブラック企業の問題について具体的に扱っている。この章の執筆者は生徒に毎年アルバイト先でどのような事例があったかのアンケートをとっていることで、説得力がある。
 1969年10月に、文部省が学校内外において高校生が政治的活動をすることを禁止する通達を出した。1989年に国連総会で「子どもの権利条約」が採択され、18歳未満の子どもに「意見表明の権利」「表現の自由」「思想・良心・宗教の自由」「結社・集会の自由」を保障している。日本は1994年に条約を批准している。本書はこの時点で1969年通達を撤回すべきだったと指摘している。文科省18歳選挙権の実現を受けて、通達の見直しを今行っているそうである。本書の見解では、この通達によって若者の投票離れ、政治離れが起こったとしている。80年代までは20代の投票率が60%を超えていたが、2014年は33%である。
 模擬選挙の効果の大きさについて本書では語られており、具体的なやり方も指南されている。「模擬選挙推進ネットワーク」という団体もあり、様々な教材の提供、ノウハウの提供を行っている。また選挙管理委員会からは実際の投票箱や記載台を借りることもできるそうだ。
 今41歳の私も「主権者教育」など受けたことがなく、学生時代に政治に全く無関心だったのだが、これは私の責任とばかりは言えない。過去の私への反省も込めて、現在の若い人たちに主権者としての教育を手伝わせて頂こうと思う。

イスラーム哲学の原像

イスラーム哲学の原像 (岩波新書)

イスラーム哲学の原像 (岩波新書)

 井筒俊彦の講演をもとに再構成したものなのでとても読みやすいです。岩波文庫に入っている『意識と本質』で言っていることと内容的には同じだと思うのですが、こちらは文章として書かれたものなので、厳密だとは思いますが、難解です。
 『イスラーム哲学の原像』は読みやすいとは言っても難しいので、分かった(つもり?)ところだけ書こうと思います。
 表層の意識で認識している世界のさらに奥にはイメージで表される世界が広がっている。そこでは神や天使や悪魔などが現れる。これはユング集合的無意識と言っている世界と同じもののようである。しかしここよりさらに先には「無」がある。絶対無文節の存在である。老子などがいうところの混沌であり、名づけようのないものである。この絶対無文節の世界から見れば、表層に現れたたとえば、花や動物や雲や人などはこの絶対無文節の「一」から分節してそういう姿を取っている存在である。これをイスラーム哲学では存在一性論というらしい。この考え方では神も人もほかのすべてももとは同じと考えるので、イスラム教からは迫害されたようである。人格神は絶対無文節の「一」からやはり文節したものにすぎないと考えるからである。
 この理論を読んでいて、浄土真宗のお寺の掲示板に「命がいまわたしを生きている」と書いてあったことを思いだした。これと同じだと思いました。存在一性論では、存在を術語に置かない。「花が存在している」とは言わず、「存在が花している」という。「一」なる存在が様々なものに分節しているのがこの表層的な現象界である。しかし、イスラーム哲学ではこの現象界の事物を「一」なるものの影に過ぎないとは考えない。ここが仏教と違うところかなと思った。この世を虚仮とは考えない。表層世界の現象も一つのリアリティと考え、絶対無文節の「一」のリアリティとして考える。この二つが二重写しになって存在しているのを「見る」ことが神秘主義者たちの修行の目標のようである。
 いま書いたことは本書に書かれていることのほんの一部だが、いずれにしても理論だけ読んでも意味がないのかもしれない。つまり自らその無文節の境位まで行ってみないことには。

8割の人は自分の声が嫌い 心に届く声、伝わる声

声には以前より関心がある。大学時代には合唱をしていて、指導者が声楽専門の方だったこともあり、主に発声の訓練に時間を割いて練習をした。個人レッスンも無料で行ってくださり、今から考えると非常に貴重な体験だった。今自分が同じ訓練を受けるとしたら、かなり高額なレッスン代を払わなければならないだろう。
 発声の練習では自分が自分で聞いている声(「骨導音」というらしい。この本で知った)と他人が聞いている声(「気導音」という)が違うということを知らなくてはならない。また「良い」発声とは、正しい指導者が「良い」と判断したものである。合唱における発声は西洋音楽式の発声である。特に私が歌っていたのは、主に聖歌であり、新しくてもシューベルトくらいまでの古い音楽だったので、なおさらそうだ。その時代の音楽を奏でるのにふさわしい声を、その道の専門家に聞いてもらい、「良い」と判断してもらった瞬間の声を記憶するのである。さらに記憶するのは声質だけではなく、その時の喉の使い方、声の当て所、身体の姿勢、立ち姿、顔の筋肉の様子などすべて記憶しなければならない。さらに自分の内側で鳴っている音、つまり骨導音を覚えておく。この骨導音が鳴っている時、気導音はこう鳴っているという運動の回路を作り上げるわけだ。これが無意識のレベルになるまで繰り返し練習し、時々専門家にチェックしてもらう。そうしないと知らないうちに我流の発声になってしまうからだ。
 さて、本書に書かれていることはこの私の体験を理論的に裏付けるものであり、理解が深まった。特に声のフェードバック効果は本書の白眉であろう。声を作っているのは聴覚と脳であるという理論である。筆者は認知心理学を学んでおり、そこここになるほどと思わせる記述がある。自分の本当の声、筆者はオーセンティック・ヴォイス(真実性のある声)と呼んでいるが、自分の声を取りもどす作業は、自分の歪んだ認知を正常な形に戻してゆく自己治癒の試みであると考えることができる。これは心理療法に近いのではないだろうかと読みながら思った。心理療法ではカウンセラーが「これが正しい心のあり方です」などと「答え」を示すのではないだろう。クライアントの話を傾聴し、カウンセラーとクライアントとの関係性の中で治癒が起こってくるのであろう。それは無意識の領域で起こっていることも多く、いわば無意識というブラックボックスに放り込んでしばらくそちらに仕事をさせておくという状態だろう。そう考えると筆者が録音して自分の声を何度も聞き、その声といわば「和解」していくことで嫌いだった自分の声が自分にとって好きな声になっていくこともよく理解できる。録音した自分の声を聞くとは、他者の他者である自己を知るということだろう。
 人は鏡を見て自分の姿をチェックする。あるいは他者の表情などを見て、自分の姿がおかしくないかチェックする。筆者が何度も言及しているが、見た目に対してこんなに気を遣っているのに、声に全然気を遣わないのは不思議なことである。本書には歴史上の「声」にまつわるエピソードがたくさん書かれている。たぶん読み物としてはここが一番面白い。ケネディニクソンに声で勝ったとか、イエス・キリストはよい声だったに違いないとか、洞窟の反響する声によって癒しが行われた古代の話とか、アメリカで研究されている声の分析による健康診断の試みとか、声を聞くだけでその人の経歴や姿格好、性格まで分かってしまうとか。
 声は無意識に働きかける効果があり、人心操作に使えるというのは本当だろう。戦争の時期には指導者の声は総じて高くなる傾向にあるとか。また、日本人の女性の声は先進国の中では最も高いそうだが、女性が自立する機運が高かった1990年代は声が低くなっていたとか。経済的な退潮が明らかとなり、保守的な傾向が高まった頃からまた声は高くなっているらしい。筆者はそれを社会の女性へのジェンダー意識の変化と結びつけているが、あり得る話である。声で「も」分かるのかという感じである。
 いろいろなネタが仕込んでいる本なのでなかなか面白いです。ちょっと文体が気に入らないのですが、自己啓発系の本という側面もあるのかもしれませんから、まあ目をつぶりましょう。