こころ

こころ (新潮文庫)

こころ (新潮文庫)

 自然の働きに抗して人為を優先した結果、自然の復讐を受けるというテーマは『それから』にはっきり出てくる。人の世の造り出した結婚という制度よりも、自然の情による結びつきの方が神聖で尊い、たとえそれが人の世では不倫と呼ばれようとも。これは『行人』で一郎が言っている。『門』で友の妻(と本文には書いていないが)を奪った宗助の人生は『こころ』の「先生」を思わせるが、この夫婦はお互いに罪を分け合って生きている。叔父に裏切られて財産を失った辺りなども「先生」とよく似た境遇で、舞台は『門』にとても近い。しかし『門』では宗助自身が語り手によって直接語られる形式で、ある意味宗助の心理まで見通して語り手が語っているのに対し、『こころ』では「私」が過去を回想する形で「先生」を語り、作者はもっと奥へ引っ込んでいる。「私」は語りの時点で「先生」の死を知っており、遺書も読んでいるが、読者には回想の形で学生だった時分の「私」から見た「先生」を語っている。したがって読者は「今の私」「当時の私」の二重のフィルターを通して「先生」を見ることになる。これが「上」である。
 「上」では「先生」が何か隠していることしか分からない。こういう謎解きのような形は『それから』『門』『彼岸過迄』などにも見られる。何か過去にあって、今の状態があるという読者を引きつけていく形だ。
 「中」では「私」の田舎に舞台が移り、田舎と東京、「先生」と「私」の父が対比的に描かれることで、その場に登場しない(「下」は遺書なので、もう「先生」は二度と登場しない)「先生」がむしろ「私」に強く意識される。「私」は瀕死の父を放ったまま、東京行きの列車に飛び乗ってしまう。「私」が田舎をよく知っているということは、「私」が「先生」を知る上での伏線になっている。父の死の間際の様子が詳しく書かれているが、一方で人生を臨終まで全うする人間と自ら処決する人間が対比されている。前者が近代以前の人間の最後の生き残りであり、後者が近代的自我に悩まされる人間のはじめと言えるのかもしれない。郷里に生まれ、郷里で生き郷里で死ぬ父。郷里を捨て、父母の墓に決別し、自ら命を絶つ「先生」。しかしそうでありながら、二人が共に「明治天皇の死」「乃木大将の殉死」に自らを重ねていることは注目される。とはいえ、死を恐れながら多くの人にお別れと言いながら死ぬであろうと父と、苦しみの終わりとしての死を待つ「先生」とでは重ね方は違うかもしれない。「先生」は乃木大将が明治天皇に申し訳ないと思いながら生きてきたことと、自決する瞬間とどっちが苦しかっただろうかと考える。Kの「どうしてもっと早く死ななかったか」という遺書を思い出させる部分だ。この疑問は「先生」自身にも当てはまってくる。
 「下」の先生の苦しみは、利己心によって人に裏切られた自分が、他人を同じように利己心によって裏切ってしまうことによって、人間という生き物全般を信じられないというところから来ている。いざという時に善人が悪人になるのだから信用ができないというのは、叔父ばかりでなく、「先生」自身にもあてはめている。
 『行人』で一郎は「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。」と言っている。最愛の妻さえも何を考えているのか分からない。狂人にしてみなくては分からないと一郎は言うが、どこまでも分かろうとしてしまうことが近代知識人の苦しみなのだ。あれこれと考えても分からないことには、一足飛びにたどり着くしかない。それが宗教だろう。しかし宗教の境地には入れない『門』にあったように、門の前に立たざるを得ないが、一歩踏み入れることができず、門前に立ち続けるほかない人間が近代人なのだ。
 恋は罪悪だ、そして神聖なものだ、というのもこの文脈で理解してみる。恋は意図して「する」ものではない。「落ちる」ものである。そういう意味では一足飛びなもので、宗教に近い。そうして人間の造った制度や倫理にはお構いなしである。そういう意味で恋は倫理的な罪を招き寄せる。恋の自然に逆らって自然に復讐された話は『それから』に描かれている。しかし三千代と代助はお互いに罪を自覚して、その罪を背負って共に生きていく可能性があり、世間に捨てられても生きていける。『門』もしかり。しかし『先生」は妻を共に道を歩む道連れにしたくなかった。恋の神聖の部分を汚したくなかったのだろう。自分だけで汚れの部分は引き受けたのだろう。もし打ち明けたら、妻は許してくれただろうと「先生」は語るが、それでお互いがわかり合えるというわけではない。それはもっと深いところで人間が人間をお互いに理解し得ない、孤独な生き物であるという意味において。そしてそれが近代教育を受けた人にとってはより鋭い形で各人に迫っていくという意味において。Kの自殺の理由を、いろいろ考えた「先生」は、「Kが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑がい出しました」と考えつき、Kも自分も同じだとぞっとする。
 自分も他人も信じられない、孤独の淵にいる「先生」は書物に自分を生き埋めにしようとしたり、酒浸りになってみたりする。こんな些細な描写からでも、漱石の小説が普遍的であることが感じられる。何かに夢中になって自我から解き放たれたいという思いは、一足飛びの宗教と何ら変わらない。アルコール中毒ギャンブル依存症と宗教と「先生」は遠くない。しかし近代人は宗教に入るにはあまりにも理性に重きを置きすぎている。
 わたしとは何者なのか分からないもの同士が近づかざるを得ない。最も愛している者でもわかり合えない、しかし孤独ではいられず、近づいていく。その辺の事情はすでに「上」のはじめの方に書かれている。「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人、これが先生であった。」
 『吾輩は猫である』の最後は猫に「我利我利はもうごめんだよ」と言わせて瓶の中で水死させてしまう。漱石の問題意識はこの時からそう変わっていないのだろう。
 「先生」が妻の母を手厚く看病し、Kの墓に毎月お参りをする。それを「先生」は「ただ人間の罪というものを深く感じたのです」と説明する。ここに宗教の実践的な本質があるように思う。宗教は神などの信仰の対象や、教義があるだろうけれど、実践の側面として奉仕(サーヴィス)という行動があると思う。それは他者への働きかけだ。自己を滅して他者に自己を預ける。だから他者の為にしているのではない。「他者の為に」といえば、それは利己心から離れない。自己の罪から一瞬でも逃れるために、自然と他者への働きかけが起こるのではないか。しかしその自分に少しでも満足なり、誇りなりが生まれれば、それはもう利己心だ。罪だ。「先生」はKの死を前にして、その緊急事態においても、Kに先にお嬢さんへの恋心を打ち明けられた時と同様に「しまった、やられた」と思い、遺書にお嬢さんのことが書かれてはいないかとまず確かめるのである。この人間の醜さ、利己心から離れられない罪を目の当たりにした「先生」は宗教に入りこんで救われることこそ叶わないが、Kの墓参り、妻の母の看病などに宗教的な慰謝を見出したはずだ。そしてそうした自分を妻に見せずに世を去ることが、つまり妻に人間のそうした苦しみを教えずに去ることが、「先生」の望みなのだろう。
 この、人に預けてしまうという身の処し方が「殉死」という特殊な死なのではないかと思う。殉死はそういう意味で自我から究極に解放された死だ。自我から解放されたいと自殺するだけでは、それは自我にまみれて殺されるようなものだが、殉死は他者の死への奉仕である。それは命を捧げる行為であり、妻の母の看病、Kの墓参りの延長線上にあるのかもしれない。
 この遺書が半ばは「貴方」への約束であり、半ばは自分の要求に動かされた結果だと「先生」は語り、死ぬ前に誰か一人だけでも信じて死にたいと語り、妻の自分への過去の記憶を純白に保存したいと語る「先生」は、やはり自我から解放されなかったのだろうと言わざるを得ない。人は人を愛せずにはいられないからである。