久々に緊張した。

9.9教会礼拝証 ヨハネ4:6 〜9 

 この夏は新聞に毎日いじめの記事が載っていました。大津の事件がきっかけとなって多くの人が意見を言ったり、調査をしたり、他のいじめの事件を報告したりしていました。
 私も学校に勤めているので、いじめ事件に関係することがあります。小学校の時にいじめられていた生徒の保護者が入学前に相談に訪れることもあります。職員室に生徒が一人でやってきて相談することや、いじめを目撃した生徒が相談に来ることもあります。そうして相談に来てくれた件に関してはそれ以上ひどいことにならずに解決できているようです。たぶん、先生に相談が出来るような事柄は限られたもので、多くは生徒たちの間で解決されているようです。時々こちらで気がついて、生徒をこっそり呼んで聞いても、「自分で何とかするからいい」と言われることもあります。大人が関わることでもっとややこしい問題になってしまうことを分かっているのでしょう。それでも大人が知っているということには意味があると思います。学校の側が全然知らずに、完全に解決してしまってから、保護者の方から「実は先生には言わなかったのだけれども、こんなことがあったので」という話を学年末や、卒業してから聞くこともあります。きっとこの生徒はたくさん保護者の方に話を聞いてもらって、苦しい状況を乗りこえたのだろうと思うのです。実際に親が出てきて相手の子どもや親に何か言ってもうまく解決はしないだろうと思ったのでしょう。私はこの保護者の方の待つ力に学びたいと思います。
 どうしていじめが起こるのだろうといろいろと考えています。原因はそれぞれ違うのだろうと思いますが、きっかけは、違いを感じることから始まるのではないかと思っています。「あの子は私たちと違う」という感覚です。どんな些細なことでもいいのです。ことば、しぐさ、外見、持っているもの、着ているもの、そういう違いを見つけだして攻撃するのです。この場合、攻撃される側に根拠はありません。降って湧いた災難、何でわたしがという混乱があるばかりです。むしろ、攻撃する側の「わたしたち」の方を考えてみたいと思います。「わたしたち」には何か共通の共有されている価値があるのでしょうか。突き詰めていくと無いのですね。共有されているのは、標的にされた子をいじめているという事実だけなのです。特定の子をいじめているという意識がわたしたちは仲間だと思わせていることになります。加えてその仲間の範囲はとても狭いのです。同じクラブ内、同じクラスの同じグループの仲間内などです。そのグループの仲間たちはいじめられている子も含めて非常によく似ています。その中でいじめられる標的は次々と変わっていきます。不思議なのはいじめられていた子も、標的が他の子に変わった時に、いじめる側に加わることです。またグループの外の子をいじめることはありません。グループの中の似たもの同士で些細な違いを探しあっていじめをしていきます。ですからそのグループはますます似たものになっていきます。違うことが許されないのです。
 話は少し変わりますが、やはり新聞で話題になっているのは、領土の問題です。日本は今、ロシアと中国、韓国と領土の問題で話し合いを続けています。それぞれ小さな島がどちらの国に属するかという問題でもめているのです。私が気になるのは、特にテレビを見ていると、日本人の仲間意識のようなものに無理矢理組み入れられている気がすることです。今、ロシアや中国や韓国を仲間のように感じる発言をしたら、ひどい目に遭いそうな気にさせられるのです。「お前は、それでも日本人か」と言われそうです。どちらの仲間なのかと追い詰められそうな気がするのです。その感覚は、いじめをしているグループの中にある子どもたちと似ているだろうと思うのです。私たちの仲間なら、当然いじめに加わるよなと圧迫されていて、断ることができないのです。
 日の丸を購入したら、補助金を出すという話がさる自治体であったようです。中学生を見ていると、グループ内で同じキャラクターグッズをカバンや携帯などに付けて仲間意識を高めている風景に出会います。でもこのグループ内で排除される子が現れれば、その子以外の子たちはキャラクターグッズを変えてしまったりするかもしれません。仲間意識を高める道具が排除のしるしとなってしまうのです。私はこの日の丸購入の話が、そういう方向に使われることを懸念しています。日の丸を購入した家では祝日に国旗を掲げるでしょう。せっかく買ったのですから。町内に、「あの家は掲げている。あの家は掲げていない」という形で違いが「みえる化」するのです。気になるのは、この補助金制度が、「愛国心を養うため」という目的がついていることです。これは裏から読めば、「国旗を掲げていない人は、愛国心がない人だ」という反転が容易に起こる可能性を含んでいます。愛国心を表現するのは日の丸を掲げることだけでしょうか。誰でも生まれた地域や土地に何らかの愛着を持っているのではないでしょうか。その表現が画一的に決められることに違和感を覚えます。
 話を戻して、いじめをしている子どもたちも、各国で「○○島は我が領土だ」と叫んでいる人たちも、そういう行動をしている最中は気分が高揚し、強い仲間意識を感じていると思います。しかしふと一人になった時、不安になるのではないでしょうか。自分のしていることが、本当に正しいのだろうか。自分が一番したいことなのだろうか。そのような不安に襲われることはないのでしょうか。
 さて、今日の聖書の箇所は、イエスサマリアの女に話しかける場面です。イエスは弟子たちと伝道をしながら旅をしていましたが、イエスは旅に疲れてひとりで井戸のそばで座っています。正午とありますから、非常に暑い時間です。そこにサマリアの女が水を汲みに来ます。井戸水は朝に一日分を汲みに来るものです。正午の人気のない井戸に水を汲みにくるこの女は、町の嫌われ者なのです。いじめられているのです。しかもサマリア人は、ユダヤ人から嫌われているのです。そこでイエスが「水を飲ませてくださいと言った時、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と聞き返すのです。イエスは救い主であり、このサマリアの女をも救って下さるのですが、まず拒絶します。いじめられている子どもが、どうして私なんかに関わるのかと手をさしのべようとする人を拒絶するのと似ています。傷ついている人は、簡単には相手を信用しません。心を開きません。しかしイエスはこの女と会話を続けていきます。疲れきった身体で、まだ水も飲ませて貰っていません。イエスは自分の存在を通して、どんな状況にあるどんな人でも見捨てないことを表しているのです。このサマリアの女は、最後にはイエスが救い主であることを、町の人々に触れ回ります。ひと目を避けて水を汲みに来ていた女が、大勢の人の前に出て行くのです。人々はこの女を通してイエスを信じます。
 人はそれぞれ違うところがあります。神様がそう造ったからです。誰かをいじめて仲間の意識を高めるのは、本当の仲間ではありません。それは神様が私たちを違いあるものとして造ったことに反対することです。神様に一人一人が結びついているものとして互いに認め合うとき、その違いは神様の偉大さの証明にあります。これだけ大勢の人間がいるのに、一人として同じ人がいないということが、神様の力なのです。