ヘルタースケルター

 ヘルタースケルターを観ました。欲望が商品として消費されていくというのはこういうことだと突きつけられるような作品です。
 全身を整形して完璧な美女になった主人公リリコは、トップアイドルに登りつめますが、整形の後遺症で身体に異変が出てきます。後輩の美少女にだんだん仕事も奪われ、精神的にも肉体的にも追い詰められていくというお話しです。
 私はこの映画を観ながらスポーツ選手を想起していました。この映画は女性の美への欲望を取り上げていますが、消費される欲望であれば、何でも同じ構図に当てはまります。スポーツ選手がヒーローであり続けるためには、つまり商品価値があり続けるためには、記録を塗り替えていかなければなりません。肉体の限界を超えて、様々な薬物を使ってでも。ドーピングとヘルタースケルターの整形には似ているところがあります。
 商品価値としての自分を身を削って演出し、それを消費する若い女性たち。しかしその女性たちも「若い」という価値を消費している。アイドルという他者の欲望を消費することで満足を得ようとするが、それは無限の欲望を肥大させるだけで、とどまるところを知らない。したがってアイドルは消費期限が切れれば、新しいものと取り換えられなければならない。商品化しているということは、交換可能であるということだからだ。だからそこでは一見、新しく奇抜なものが要求されているようで、実は同じものが要求されている。全く新しいものであれば、交換不可能だからだ。「個性派」はその範囲内でのことで、本当に個性的ではいけない。また、アイドルの側だけではなく、消費している側である「若い女性たち」も交換可能な存在として、消費期限が切れれば退場し、次の世代に欲望の場を明け渡さなければならない。これは資本主義社会では多かれ少なかれ経験していることで、アイドルを取り巻く状況で強調されているだけだ。
 リリコが決定的に仕事上でだめになってしまう誕生日の日、第九の「歓喜の歌」が流れる。本人は恐怖で叫びを上げているが、それが「Freude!」という叫びと妙に合ってしまう。ぞっとするような音楽の使い方です。また、リリカが自分にとどめを刺す記者会見の最後では、非常に長い沈黙のあと、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」が軽快に流れる。残酷なまでに美しいワルツ。欲望と無限のダンスを踊るような場面です。太宰治の『右大臣実朝』を思い出します。「アカルサハ、ホロビノ姿でアラウカ。」しかしこの記者会見は、アイドルリリカと生身のリリコが分離する瞬間でもあり、反逆する自我の芽生えでもあるのです。
 リリコが記者会見して失踪した後に、女子高生たちがもっとリリカのことを知りたいと言い、リリカの写真を枕の下に敷いて寝るとニキビが治ったというような話をしています。現実世界からいなくなることで、新しく「物語」が生まれ、リリコは祭り上げられ、神格化され永遠性を手に入れたといえるでしょう。実際メディアの中のリリコは永遠に若く美しい。本当の「アイドル=偶像」になったということです。この物語が生まれる過程は、まるで『平家物語』を思わせるところがあります。平家は亡びなければ語られることはなかったでしょう。家康より秀吉、秀吉より信長の方が伝説化しやす。不明な部分、未完成の部分が多い方が物語になりやすい。そういえば、ウサイン・ボルトは「伝説になる」と公言していました。彼は自分が消費される存在であることをよくわかっている。次のオリンピックで活躍するには期限切れであることが。しかし永遠になる方法がある。それが「伝説になる」ということです。
 欲望の消費を中心とした関係に入って来たら困るもの、それは「愛」でしょう。一対一の関係。お互いに生身の存在としてはふれあわないことが、アイドルのアイドルたる由縁なのです(AKBはそういう意味ではそこに違う論理を持ち込んで成功している)。交換可能な商品が特定のものとのみ結びつくことはルール違反なのです。リリコのアイドル部分は神格化され、永遠性を手に入れる一方、生身のリリカはアンダーグラウンドへ追放されます。自我を持ったアイドルはもはやアイドルではない。この作品の一番奥のテーマはそのような感じもします。