読み応えのある本

『思想』の軌跡――1921-2011

『思想』の軌跡――1921-2011

 本書は1921年に創刊された岩波書店の雑誌『思想』の軌跡をたどる座談会形式の特集です。
 全体は大きく三部構成となっており、第一部「二一世紀の知とは何か」第二部「『思想』一〇〇〇号記念連続座談会 思想の100年をたどる」第三部「再録資料『思想』四〇〇号に寄せて『思想』五〇〇号に寄せて」となっています。
 本書の中心は第二部です。全体がさらに時代区分で4つに分けられています。1.1921〜45年「知の衝撃と再編成」2.1945〜65年「戦後の思想空間」3.1965〜85年「大衆消費社会と知の変容」4.1985〜2007年「ポスト近代の到来」となっています。
 内容は多岐に渡り、基本的に知識のあることを前提とした座談会なので、理解できるところとできないところがあるのですが、ある時代のついて語るときに、その時代に書かれていたものを読むというのは大切な作業だと改めて思いました。自分自身の記憶もそうですが、国民の記憶というものもいつの間にか変化しており、「変化している」という事実に気がつかないために様々な意見の対立や過ちが繰り返されています。現在、日中、日韓で繰り広げられている領土問題や歴史問題も、そういう記憶の変化が悪影響を与えていると考えられます。もちろん、この場合はそれだけではなく、自国に都合のいいようにあえて事実を歪曲している人もいると考えられますが、大衆レベルの記憶では、それぞれがこれが事実だと思っていることが、当時の認識からはかけ離れているということは大いにあり得ることです。そのような意味で考えると、紙データの出版物の動かしがたさは貴重です。
 2.「戦後の思想空間」には「転向」の話題が出て来ますが、まさに「変化」についての議論です。転向の問題は、後の歴史からの断罪としての側面、共産党員が転向宣言をして戦争協力をしたというような側面ばかりが強調されてきたが、転向によって一貫性がないと言えるのかどうか、非転向者の方が、思考が停止していたのではないかという議論が戦後からされているのは興味深いことです。また、現在から見ると「右」「左」「保守」「革新」といったカテゴリーにわけられている人たちが、戦後に『思想』を含めた雑誌の中で対談をしたり、執筆をしたりして、戦後の日本について考えている、多様な立場の人たちが喧々諤々の議論をしているので、熱気があると対談の中で述べられています。日本が落ち着いてくると雑誌も「右系」「左系」などに別れてしまって交流がなくなってしまうと。対談者たちはむしろ今の分類され、細分化された知の状況に危機感を持っています。私は戦後の対談部分を読んでいて、知の巨人のような人が丸ごと大きな思想問題に取り組んでいるスケールの大きさを感じました。また、人類への期待、未来への期待がまだまだ明るく開けている感じが強くしました。そこではその巨人の大きな思想に、右とか左とか言ってもしょうがないんだろうなと思わせる広さを感じます。こういう横断的な知識人がこれからの日本にこそ必要なのでしょうが、専門化をひたすら進めているのが日本です。その極点に3・11があったのですが、日本の思想はこれから変わっていくのでしょうか、変わらざるを得ないとは思います。第一部の「語らなくなった科学者」というところに、1950年くらいまでは科学者が『思想』のような雑誌に寄稿して、科学者の立場で社会的な使命などについて語っていたが、その後、「科学」は「科学技術」という言葉に取って代わられ、科学者が語らなくなっていくと言います。その転換点が「原子力」であると。1956年に科学技術庁が出来ています。
 その時代の記憶を知るということで、衝撃を感じたのは、第一部にある「関東大震災」についての記事です。関東大震災の時にすでに、安全神話の崩壊、日本人の驕り、自然との付き合い方、文明論的な議論が必要だとすでに書いてあるというのです。原子力以外の論点は3・11と同じだと。今の私たちから見ると、その議論を生かせなかった、喉元過ぎれば熱さを忘れるという状況で、3・11でまた同じことを議論しているわけです。また、「関東大震災」と名前がついているが、正確には湘南沖地震で伊豆や伊東の方は津波の被害が大きかったらしいです。ところが東京の火事の被害が大きかったことと、書き手が東京にいるからということで、東京中心に語られるわけです。この構図は阪神淡路でも、3・11でも同じで、地震からしばらくは東京の交通や電気のことが語られていました。首都機能が議論の中心です。
 もう一つ衝撃的だったのは、原子力の平和利用と被爆地の関係です。冷戦構造と深い関わりのある原子力発電技術の隠れ蓑として、アメリカが「平和のための原子力」というスローガンを打ち出して日本に原子力を導入し、中曽根康弘正力松太郎などを中心に原子力政策が推し進められていったことは有名です。
 1958年に広島で「復興大博覧会」が開かれ、そこに原子力科学館というパビリオンがあって、原子力の平和利用や原子核のモデルの展示があったそうです。その3年前1955年に正力松太郎社長の下、読売新聞社アメリカ大使館と一緒になって、日比谷公園で「原子力平和利用博覧会」が開催されます。1954年に第五福竜丸事件があり、原水爆への反対運動が起こりますが、博覧会日比谷公園に40万人近くを集めて大成功、56年から57年にかけて名古屋、京都、大阪、広島、福岡、札幌、仙台、水戸、高岡と各地を巡回します。広島の博覧会は、中国新聞社・アメリカ大使館・広島県広島市広島大学などが一丸となった地域ぐるみのイベントで、会場は平和記念公園、平和記念資料館の建物も使用され、原爆資料展示は博覧会開催中、近くの公民館に一時的に移されたといいます。中国新聞社は、広島は、そもそも原子力と切っても切れぬ関係の土地だからこそ、原子力博をもっと早く催すべきだったとし、さらに広島では、東と西から放射能雨が降り注ぐ原爆慰霊碑前の会場で、アメリカ大使館が約一億円の出品費を負担して成立したこの博覧会が、世界の平和と現代人の新しい生活への願望のためのささやかなサービスとなると主張したということです。
 また、1970年の大阪万博では開幕と同時に敦賀原発が稼働しています。敦賀で造られた「原子の火」が「未来都市、万博会場」に送られるというコンセプトです。同じ年に美浜原発も稼働します。
 私はこの広島で行われた「原子力平和利用博覧会」のことも、大阪万博のことも全然知りませんでした。3・11後のメディアにもこうしたことが語られてはいないと思います。ここには書きませんでしたが、当時すでに反対運動も起きていますし、原子力「平和」利用の問題について発言している思想家もいます。しかし関東大震災での反省が生かされていないのと同様に、原子力についてもその意見は聞かれてはいないのです。1950〜1970年くらいに、人類の進歩と平和、原子力の未来を信じて熱狂した日本の大衆は、今は声を揃えて「脱原発」を叫んでいますが、戦後急に反米から親米になった時の日本人と重なってきます。「国にだまされていた」とでも言うのでしょうか。
「自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ」と茨木のり子の言葉が聞こえてきます。