そんなに単純ではない。

 現場の教師にとっては、いじめの「認定」などはどうでもよいことである。人間関係で困っている生徒がいる。それなら話をとことん聞くのが教師の仕事だ。毎日顔を合わせていれば、表情が暗い、顔色が悪いなど、さまざまなサインに気がつく。担任が気づかなくても、授業を担当している学年の教師や、非常勤の講師の先生などが気づいたり、保健室の先生などが気づいて教えてくれたりする。そんな時には間髪を入れずにその生徒と一対一で話をするのがいい。一回では心を開いてくれないかもしれない。何度でも話をすればいい。保護者にも連絡を取って話をすればいい。杞憂であればそれで安心であるし、何もなくても気にかけていることをその生徒には分かってもらえるはずだ。
 もし本当に何か具体的な人名が挙がってきたら、その生徒(たち)とも話をすればいい。それも一対一で。時間がかかるし、迂遠に見えるかもしれないけれど、一番大切なのは、顔と顔を合わせて、人間関係を作ることだ。どう手を打つかは次の話だ。
 上のようなことは当該の生徒たちだけに効果があるのではない。教室では教師の目に触れないところで様々なことが起こっている。その大半は生徒たちが「自分たちのルール」で解決している。学年が上がれば上がるほどそうだ。でも、困っていることがあって、大人に介入してもらいたいけれどどうにもしようがないことがあったり、今のところ自分には被害はないけれど、誰かにどうにかしてほしいことが持ち上がってきたりするものだ。 
 そういうときに、昼休みや放課後に生徒が教師に呼び出されたりする。教師はこっそり呼び出しているつもりかもしれないけれど、たいていバレている。呼び出されているメンバーを見れば、どういう件で教師が動いているのかはすぐに分かる。また、生徒が職員室に行ったら、学年の先生が誰もおらず、密室で会議をしていたりする。生徒は勘が鋭いから、すぐに先生たちが「例のあのこと」について話をしているんだなと気がつく。実はこういうことがとんでもないことが起こることを未然に抑止しているのだ。もし自分が「あの子」のような目にあっても、先生たちは助けてくれるはずだ、もし自分が悩んでいても、先生たちは気がついてくれるはずだ、と。そういう信頼感は顔と顔を合わせて話をしていないと創造されない。形式的なお説教などは百害あって一利なしだ。誰が誰に向かって話をしているのか、「教師」が「クラスのみんな」に向かってする話ほど無意味なものはない。「○○先生」が「○年○組の○○や、◇◇や」に向かって話をするのでなければ。
 今回の事件で全体にアンケートを採ったらしいが、この「アンケート」を採るという手法はできれば使いたくない、最後の手段だ。そしてこの手のアンケートが意味のあるものになるかならないかは、そのアンケートの前に生徒の前に立つ教師がどういう話をするのかによって決まる。クラスの中で悲しい思いをしている生徒がいたり、嫌な目にあっている生徒がいるのは本当に耐え難いのだ、そして教師の努力ではもう解決できないから、どうか助けてくださいということが、その教師自身の言葉として語られなければ、アンケートを採る意味はない。それまでにきちんと生徒と人間関係を作っていれば、生徒たちはちゃんと答えてくれるはずだ。今回の事件でアンケートを採る前に個々の教師がどんな話をしたのか知りたいが、どこにもそのような記事はない。
 いじめの「認定」は学校や教育委員会や市や国や裁判所などにとっては重要なことだろう。しかしその問題と現場で生徒たちと接する教師が直面している問題とは無関係である。
 いじめっ子、いじめられっ子という概念は昔から存在するが、それは現代のいじめ問題の「加害者」「被害者」とは次元が違うようだ。いじめっ子、いじめられっ子はもっと曖昧なくくりで、もっと大きな「遊び仲間」というくくりに包摂される。加害者側の「遊びだった」という言葉はその名残を感じさせる。
 いじめっ子、いじめられっ子が曖昧だというのは、単純な善悪で判断できないということだ。たとえば、他のグループからいじめられっ子が被害を受けたら、同じ遊び仲間のいじめっ子はその子を助ける。いじめられっ子は教師に「助けられる」存在ではない。また、グループ内には、いじめられっ子の他に「みそっかす」と称されるルール外の存在がいたりする。たいていは幼い子、鈍くさい子などだ。グループ内が同質ではないのだ。
 現代の教室はかなり同質化が進んでいる。それは親の子育て時代から始まっていて、様々な育児マニュアル、成功談の類が子育てに「成功」と「失敗」があるかのような幻想を植え付けているからだ。マニュアル通りに育っていくことが親の愛情獲得の道ならば、子どもは同質にならざるを得ない。同質化が進めば、ちょっとした差異が差別の引き金になる。排除のエネルギーが発散されないままに溜まっているので、非常な勢いでスケープゴートに攻撃が集中してしまう。死にまで追いやってしまう。排除のエネルギーは本来、自分たちは仲間だということを確認するための良質のエネルギーとして発散されるべきものだ。グループ内で同じアクセサリーを付けたり、合い言葉をつくったり……。
 排除のエネルギーを日々少しずつ解放するためにも、教師は生徒と個別に話をする必要が日常的にある。グループとして扱うのではなく、個人として扱うことが同質化を緩和させる。誰でもない自分として扱われることが、逆に他人も自分と同様に唯一の存在だと気づくことになるからだ。
 今回の事件で、いじめの対策を国が新たに行うような動きになっているが、いじめに対する罰則を厳しくすることや、教師が怠慢なのではないかとルールを厳しくしたり、厳正なマニュアルを作ったりすることは、必ず事態の悪化を招く。
 ルールを一つ作れば、悪人や不適格者を創り出すことになる。そのようにして差別のふるいにかけていって、同質化を促せば促すほど、さらにいじめは先鋭化・残酷化していくからである。マニュアルを作ることも同様で、教師がマニュアル内でしか動かないのであれば、生徒もマニュアル内で同質化を強めていく。
 そもそも教育現場に「わかりやすさ」を求めるのは間違っている。時間をかけて混沌とした状況に入り込んでもがくしかない。わかりやすく、スピーディにすればするほど、問題は見えにくく、深刻化していくのである。