東大話法とは

原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―

原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―

「東大話法」とは、副題にあるとおり、傍観者の論理・欺瞞の言語のことです。筆者は東大話法の規則を20種類挙げています。煩雑ですが、面白いのですべて挙げておきます。
1.自分の信念でなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
2.自分の立場の都合のよいよいように相手の話を解釈する。
3.都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
4.都合のよいことがない場合には、関係ない話をしてお茶を濁す
5.どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
6.自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
7.その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
8.自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
9.「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
10.スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
11.相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
12.自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
13.自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
14.羊頭狗肉
15.わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
16.わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
17.ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。18.ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
19.全体のバランスを常に考えて発言せよ。
20.「もし○○○であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。
 この本の面白いところは、実際に発表されている発言を取り上げて、これらの規則を見出しているところです。原発におけるいわゆる御用学者たちの発言と、小出裕章氏の発言との違いを取り上げながら、いかに無責任な発言がどのような構造になっているかを明らかにします。また、小出裕章氏が原発事故後ににわかに注目されたことを論じた香山リカ氏の発言の「東大話法」性をつぶさに検証します。また、震災後の東大工学部の学生向け文章や、政府への提言などの文章がいかに無責任で、「東大話法」に満ちているかを検証します。具体例の最後は経済学者の池田信夫氏のブログ「アゴラ」に書かれている震災関係の記事に批判を加えていきます。
 筆者自身言っているように、この文章は個人を中傷することが目的ではなく、「東大話法」というパターンが抽出できるような、無責任で傍観者的な話法がどうして成立したか、それがどれだけ危険かを明らかにすることにあります。また、「東大」とありますが、東大の優秀な頭脳にこの種の話法が多く見られるということであって、この種の話法は巷に満ちあふれています。そしてこの話法の成立には「立場」の選択が重要であると筆者は指摘しています。
 立場の歴史を遠く平安時代にまで遡り、立場とは、そこで「生き物が生きるための場所」のことと考えます。それが明治時代になって夏目漱石によって、英語のstandpoint position situation stanceなどの意味をミックスしていって、英語から離れた日本語独特の「立場」という言葉が成立したと考えています。筆者は日本語の立場には、personalityの意味も含まれていると指摘しています。
 「立場」の意味変遷の歴史の最後には、特攻隊の妻へ宛てた手紙を参照しながら、「立場」のために死ななければならない若者の姿を指摘し、本来「生きるための場所」であった「立場」が逆転してしまっている現象を浮き彫りにしています。ここまで来て、「東大話法」に規則にある「立場」が東大話法的話者にとって重要である所以を明らかにしたのでした。
 本書より「人間ではなく『立場』から構成される『社会』は、一方で立場に伴う義務を果たすための、異常なまでの無私の献身を人間に要請し、また一方で、立場を守るための、異常なまでの利己主義を要請しました。またここから生じるストレスを誤魔化すための果てしない消費は、弱者に対する搾取と、自然環境に対する強烈な破壊圧力をも生み出しました」
 筆者はさらに「職(しき)」から「役」そして「立場」へという歴史的な流れも指摘しています。「職」は戦国時代に「軍役(ぐんえき)」にとって代わられ、これは「家」の概念とともに発展し、家業の「役(やく)」を担う一族という考え方になっていきます。「えき」は労働を強いられて負わせられる意味、「やく」は組織の一員として役割を主体的に担うことを指します。江戸自体には身分に応じて様々な役目があり、それをこなすことが「立場」を保障するものでした。そしてこの構造は現代の企業にも受け継がれており、「立場」を守ることが至上命題になっていると言います。立場を守るために「役」が創出される(天下り!)。
 原子力業界では、ほとんどすべての論文が「我が国」で始まるそうですが、原子力推進は国(御公儀)の決定なので、御用学者はお上の命に従って「役」をこなしているだけなのだと、だから福島の事故に無責任でいられるのは、この構造故であると指摘しています。
 本書の筆者安富歩氏は、もともと経済学の人ですが、自身語っている通り、様々な分野を渡り歩いてきた人で、様々な分野に話が広がっていきます。ある意味専門家ではないからこそ、見えることがあるのだろうと思います。『文明の災禍』で内山節氏が、原発事故と専門性について詳しく書いていますが、専門家だから間違えない、一番知っているのだという思い上がりと、周囲の専門家への遠慮が「東大話法」を生み出しているのでしょう。筆者も言っているように、「東大話法」を笑い飛ばしてしまえば、それを使う人もいなくなるが、恐れ入ってしまうと、今度は自分が「東大話法」を使うようになると警告しています。