思いついたこと。

 統一の状態にあるとき、意識は無になっていると思う。岩を見ている自分とか、岩と一体になって岩に没入している自己を客観的に見ているというような認識ではなく、その状態を意識していていない状態が、統一であり、無なのだと思う。それを意識してしまったら、自他の分裂になってしまう。その統一がもっと高次の統一になると最終的には神との統一にまで達すると思う。「悟り」というけれど、いろいろなレベルの悟りがあるのだと思う。小さくはテストで問題を解いているときに没我の状態になっているのも、問題の数式なんかと一体化しているのであるし、小説などを読んでいて、物語世界に没入している状態などもそうだと思う。そういう時に、「自分は今、数式を解いているのだ」とか「読書をしているのだ」などと思いながら没我の状態になることはできない。思ったとたんに現実に引き戻されてしまう。自他分裂の状態に戻ってしまう。統一が持続している状態の時には時間の進むのを忘れてしまう。これは時間という枠組みを超越しているとも考えられる。統一がより高次になれば空間をも超越できるはずである。これは身体が瞬間移動するというような超常現象ではなく、意識が身体の器に止まらないような状態だと思う。つまり荘子の「胡蝶の夢」である。
 上のようなことを不意に思いついたのは、ジョギングをしている時だった。ジョギングも走り始めは息が苦しく、呼吸も一定しない。身体も温まっていないので動きもぎこちなくバランスも一定しない。しかし、20〜30分もすると呼吸は一定になり、苦しさもなくなる。呼吸をしているという意識もなくなる。足も動かし、腕振りもしているが、無意識であり、規則正しい。そんな瞬間に、昨日読み終わった純粋経験の話がよみがえってきて、ふいに理解できたのである。そしてふりかえってみると、無意識に身体を前に運んでいた時、確かに自分は没我の状態にあった。その時、自己は身体と統一されていたと思う。自己が他者である身体を操作しようとしている時、それが走り始めの状態であり、自他統一の状態ではそれを意識しない。そしてその分かれ目は呼吸にあると思った。座禅をしたことがないが、自分の呼吸を数えるということをするらしい。それは統一のための身体操作だろうと思う。それを無意識にできる状態になった時、統一の状態に入るのだろう。それから、規則正しい動きである。一定のリズムである。シャーマンなどは霊的な託宣を得るために楽器の一定のリズムに促されながら身体をリズミカルに動かし、トランス状態になるという。こう考えると、どうしても性交とオーガズムの関係を連想する。するとそこからあの非常に官能的なベルニーニの「聖女テレサの法悦」が連想され、性と聖の問題にたどりついてしまう。現代でもしばしば能力の高い、信者も多く集めている教祖のような人物が性的な問題で糾弾される事件があるが、本来聖と性は近いのだと思う。より高次の統一に向かうということでは。カトリックをはじめ、女性を罪深いものと定め、男性だけの「清らかな」世界を作ろうとしたのも、そうした宗教的な高次の統一と性的な統一とが、近すぎて怖かったからなのではないだろうか。そういう意味では、ル=グィンの『ゲド戦記』で、男性だけの魔法使いで構成されているローク学院を批判的に扱い、魔法使いとしての能力を失ったゲドが女性と性的に結ばれるというストーリーや、ロークができる以前の魔法が本来女性たちのものであったという話も、男性の女性への怖れをよく見抜いて描かれているということなのかもしれない。フェミニストの旗手と言われるゆえんである。