純粋経験とは

善の研究 (岩波文庫)

善の研究 (岩波文庫)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

 『善の研究』を読みながら、ずっと井筒俊彦の『意識と本質』を思い起こしていました。『善の研究』は作者がはじめに断っているとおり、はじめの第一編は第二編以降を読んでから読んだ方がわかりやすいです。西田幾多郎の言っている事柄はひとつで、純粋経験の立脚地より見れば、自他の区別なく、知行合一、自然と精神の区別がないというのが世界の実相であるということです。たとえば、自分が意識して何かを見ているというのも、ある片方の見方であって、物と自己が一体となって、たまたま自己の側からの見方を意識しているに過ぎないというようなことであるようです。読みながら、禅の意識だなあと思って「解題」を見ると、西田幾多郎はひたすら打座の人だったと書いてあってなるほどと思いました。まずそういう実感というか、直覚があってそれをことばに紡いでいったということなのでしょう。『意識と本質』でも座禅の最中に心の中に次々と起こってくるイメージのことや、その先にある自他の境界線がなくなっていく世界などを生き生きと書いていて、とても魅力的です。その辺の魅力という点では『意識と本質』の方が面白いですが、『善の研究』では、現象の説明から、人の生きるべき道の方まで大きく踏み込んでいて大変魅力的です。『論語』や『老子』を読む面白さに近いです。実際、西田幾多郎は何度も儒者の言葉やキリストの言葉などに触れています。
 カントは神について語ることを禁じてしまい、ニーチェルサンチマンで神を説明してしまうし、ちょっとがっかりしていたのですが、西田幾多郎は神の存在はに近づく方法を述べました。また、誠実に生きようとすれば人間にとって宗教は必須のものであるという言葉には勇気づけられる思いでした。実際、『善の研究』の第四編第一章「宗教的要求」第二章「宗教の本質」第三章「神」第四章「神と世界」のあたりは、教会の説教なんかよりずっと説得力があり、特定の宗教の信者になるかどうかはともかく、宗教心が生まれることは間違いないと言えます。
 また、自己の自転の考え方や、大なる統一のための分裂などの考え方は、発達心理学のエッセンスと言ってもよい内容で、人間というものの誕生から死、そしてその先までを見通す非常に長い射程を持つ思想だと思います。