心の病とキリスト者の関わり

 本書は精神科医として臨床経験を重ねてこられた著者がクリスチャンとして、また神学生や牧師との関わりを通して、精神医学と信仰、教会のあり方が相補的な関係にあることを多くの実例に基づいて語っている本である。多くの引用がされており、それぞれの本を読んでみたいと思わせる、魅力的な読書案内にもなっている。
 第二章 臨床精神医学の基本的知識 第三章 牧会上有用な心理学的概念 のあたりは、専門的な内容を実例を交えながらわかりやすく解説していて、こうした種類の読み物として今までに読んだどんな本よりも分かりやすく思われた。著者の理解がそれだけ深いということだろう。第四章 キリスト者の関わり 第五章 具体的な牧会活動 はいよいよ具体的な事例を検証しながら、心の病を抱える人に対する援助者のあり方について具体的な示唆を行っている。現在の教会のあり方、医療のあり方に対する率直な批判も随所に現れ、厳しい内容になっているとともに、信仰の力、人間の可能性への感動が語られる。 第一章 援助者の基本姿勢―本書の前提となる事柄について― 第六章 いくつかの雑感 の二つは、間の章で具体的に検証されている事柄を、第一章は要約として、第六章はエッセイ風に書かれている部分である。

 いくつか心に残った部分について書いておきたい。著者は何度か専門化・分化の陰の部分について指摘している。教会の中に心を病んだ人に対する理解が低いことの問題についても言及しているが、逆に心の病について知るがゆえに、非専門家である自分にはうかつに関わることはできないと、医師や専門機関に丸投げしてしまうことの問題を指摘している。これは、学校などでも同じで最近はカウンセリングやさまざまな医療的診断についての理解が進んだ結果、何らかの診断がついたら、カウンセラーや病院に丸投げ、あるいは関わりについてはカウンセラーや医師の言いなりということも起こっている。筆者も何度も書いているが、心の病は社会の病である。どういう心の病が起こるかは社会のあり方に左右される。言い換えれば、心の病を生む社会の構成員である自分を無関係な場所に置くことはできないということであろう。ある家族の代々抱えている問題を一人の子どもが担っているという場合がある。また「影」の問題としてよく語られることだが、非常に成功した親の子どもが心の病に罹っているという場合がある。そのことによって何かのバランスを取るように。心を病む人の存在は、その社会の欠けをいわゆる「健康な人」に認識させる。たとえば学校に行けない生徒がいたとして、その生徒に問題があるのだという認識だけでは問題は解決しないだろう。むしろ学校に普通に行けることの方が何か不自然であるかもしれないのだ。筆者はそうした人を「いけにえの子羊」と表現している。子羊は社会に警鐘を鳴らし、社会を危機から救うのだと。預言者、詩人、神経症・精神病の患者、犯罪者であったりする人々が集団の影を背負わされていると考えるのである。

 「『共に生きる』とよく言われます。私たちは一人ではなくて、多くの人と共に生きている社会的存在なのですから、正しい主張といわねばなりません。しかし、そこには共に生きるという積極的人生態度をとれないものを裁く、あまりにも健康な人生観があるのではないでしょうか。そのためか主張する人の意に反して、それは共にを否定する結果を招く主張になり易いように思われます。」(藤木正三『神の風景』ヨルダン社

 「C子さんは、速く話をしたり、字を読んだりすることができない。行動も少しスローである。しかし、礼拝や分級で聖書の朗読や輪読をしている。参加しているのである。教会がいろいろな人に参加の機会と場を提供することが大切だと思っている。C子さんは教会を休まない。教会を見捨てないのである。見限らないのである。本当にうれしい。C子さんに見限られたら、教会は教会でない。」(本書より)

 学校から去っていく生徒に対して、あるいは会社などから去っていく人に対して「落伍者」「ドロップアウト」という認識があるのではないか。「ついていけなくなった」ということである。学校や会社がその生徒に、その人に見限られた、見捨てられたとは考えないのではないか。変わらなければと思わないということである。
 治療者・援助者の変容については、「転移・逆転移」の項に理論がわかりやすくまとめられている。転移は患者から治療者へ逆転移は治療者から患者へ向けられる無意識的な感情のことである。本書には「転移・逆転移は人間の心の深層における心の交流の一つであり、人格変容の有力な手段と考えられる」「ある種の対人関係の困難や精神症状は転移・逆転移という心の交流を介して初めて克服され得る」とある。つまり、治療にあたる側の人間も変容を免れないということである。自分だけは変わらない位置にいて、相手が変わっていくことを望むことはできないということである。深層心理レベルの交流においては、医師と患者とか先生と生徒とか牧師と信徒という枠が取り払われる、個人的な感情の交流が起き、それが心の回復に向かうきっかけとなる。しかし本書でも指摘されているとおり、そこには危険が伴う。本書に「私たち臨床家がこの転移感情の動きに気づかなかったために、致命的な痛手を受けたり、悲劇的な結末を招いたりすることがあったように、牧会者もまた、ある時期、必要以上に個人的な感情を向けられたり、逆に、ある信徒に妙に心引かれるものを感じたりする経験は皆もち合わせているのではないだろうか。また、こうした特別な感情や性的誘惑によって牧会者が足元をすくわれたという話は皆無とは言えないであろう」とある。
 本書ではこれは関係性の産物であって、心理学的冷静さをもって自制と謙虚さを忘れないように注意せよと警告している。いつの間にかよき父親(母親)役、よき恋人や救い主を演じさせられていないか、そのことによって、相手の中に悲劇のヒロインを見ていないか注意しなければならない。だいたい深刻な相談事というのは一対一でしかも人目につかないところで行われるものである。援助者は常に冷静さが求められるだろう。しかしここが難しいところだが、クールになりすぎてマニュアル的に対応しても相手は心を開かず、深層心理レベルでの交流は起きないため、治癒も覚束ないということになるだろうから、危険を知りつつ飛び込む覚悟が必要になるだろう。
 もう一つやはりそうだなと思ったことは、病んだ経験のある人の強みということである。心の病にある人の話をよく聞けるのは、やはり体験した人である。健康すぎる人は病の側面が分からないからである。もちろん、病んだ経験のある人が病む人に近づく危険もある。本書で「私自身が人の悩みや苦しみに敏感になり、ことばに対する感性が鋭くなるのは、決まって自分が何かで悩んでいたり苦しんだりしているときだったからである。」「援助者自身の心の苦しみは、しばしばその人を被援助者と同じ地平に導くのであろう」とあり、大いに納得した。
 本書を読んで改めて感じるのは、多様性が確保されていることの健全さである。一つの目標に向かって高い得点をマークするには同質の集団の方がいいだろう。そしてそういう瞬間も必要かもしれない。しかしそればかりでは危険である。同質の集団には必ず同質の弱点があるからである。その弱点ゆえに全滅してしまう前に、異質な存在が立ちあがってくるのだと思う。それは未来を予言する警告者である。心の病は年々増加しているようだ。本書は2000年に出版されているが、現在本書の指摘はますます有効である、残念ながら。社会全体の変容が求められているのだろうが、過去の成功体験に縛られて変化できない。これはうつ病の心性である。現代は日本社会がうつ病に罹っているのかもしれぬ。