国家・宗教・日本人

 司馬遼太郎井上ひさしの対談集。新装文庫版で文字も大きく行間も広く、昔の岩波文庫単位で半分か三分の一の分量くらいしかないのですぐに読めます。95年96年が対談の初出のようですが、内容は古びていない。司馬遼太郎の最晩年の語りということです。ちょうどオウム真理教の事件が扱われていた頃のようで、オウムのことが頻繁に出てきます。
 この本を読んだきっかけは、司馬遼太郎没後20年を記念してNHKで放送していた『この国のかたち』に触発されてです。
 宗教のことについて語っている部分で、井上ひさしが「宗教には、自分の心よりも他人の心を大切にしようという姿勢が基本にある」と言っているのはさすがだなと思います。だからオウムは宗教ではないと言っています。なぜなら、相手の心を大切にするのは相手の立場に立たねばならず、そのためには自他の壁を壊して他人の気持ちにならなくてはならぬ。しかしオウムは他者との間に壁を厚く築いて自分たちの現世での救いばかり説いている。鋭い見方です。ちょうど麻原が逮捕されてしばらくの頃にされた対談のようですが、やはり作家の目は違うなと思います。
 また司馬遼太郎が現代の日本人は宗教に無知であるというのは同感です。宗教に無知であるがゆえに、宗教らしきものが入ってくるとすぐに動揺してしまう。本当は宗教について学校などできちんと学んでおく必要があります。仏教・キリスト教イスラム教くらいは学校教育の必修科目にすべきだと思います。
 これは司馬遼太郎の持論としていつも語られていることですが、統帥権の問題があります。大日本帝国憲法では天皇は独裁者ではなく、国家の機関であった。美濃部達吉天皇機関説が正統的理解であった。それが統帥権というどこにも書かれていない権利が陸軍を中心に声高に叫ばれていって、日本は戦争に突き進んでいったという。司馬遼太郎は明治の人々を高く買っている。その勤勉と国家への熱い思いを誇り高く書いている。司馬遼太郎は本当の意味での愛国者だろう。それだけに日本が歪んだ戦争に突き進んでいったことに怒りを抱いている。NHKの『この国のかたち』でも取り上げられていたが、古市公威という土木工学の最初の日本人教授になった人物について語られています。古市がフランスに留学していたとき、あまりに激しく勉強していたので下宿のおばさんが、からだを壊すと注意したところ、「ぼくが一日休むと日本は一日遅れます」と答えたというエピソードです。今の日本で、こういう意識で留学する人はいないでしょう。どちらがよいかという問題ではなく、明治時代というのはそういう若く熱い時代だったのででしょう。井上ひさしが、中国からの留学生を三人受け入れたことがあるという話をしています。三人とも女性で、それぞれ別の時期に受け入れたそうですが、どの女性も井上ひさしがあげた辞書をぼろぼろになるまでひきつぶして、大学に進学していったというのです。この時の中国はまだ今のような大国ではありません。この対談から20年くらい経過していますが、日本は中国に追い抜かれています。その頃の中国は明治の日本のような若く、熱い雰囲気に沸き立っていたのでしょう。きっとインドネシアとかマレーシア、ベトナムミャンマーなどもこれからそういう「ぼくが一日休むと国が一日遅れます」という感覚で勉強する若者が現れてくるのでしょう。いや、もうたくさんそういう人がいるでしょう。
 司馬遼太郎井上ひさしも、日本が再び明治の頃のような発展をしたらいいと考えているわけではなく、「美しい停滞」「成熟した社会」を目指すべきだと提言しています。今の日本は戦後復興期の頃のような幻想を抱いているように見えます。東京オリンピックは1964年のそれとは確実に異なるはずのものですが、どうも今政治を行っている人たちには、新幹線とリニアを重ね、オリンピックにも日本の復興を重ねているように思います。そういう時代ではなく、むしろ人々の幸福度の充実や、文化度の成熟、宗教をはじめとする心の成熟に焦点を当てるべきだと思うのです。
 日本語の話も面白い。言文一致の日本語、口語体としての、演説としての日本語の成立についての論考も面白いです。「聞き手を自分の話に夢中にさせようというときは、どうしても言葉そのもののほかに節のような、力のあるもので人の心をつかまえようとする」というのは、今一番私が関心のあることです。