鹿の王

 他の上橋作品と同様に、細かい所にリアイティが宿っている、手抜きのない作品です。「あとがき」に作者が書いていますが、感染症のことや地衣類のこと、トナカイの放牧のことなどたくさん勉強したんだろうなと推察されます。しかしこういう「調べもの」は大変だけれど、根気よく続ければできそうです。これを上質のファンタジーとして結晶される力は作者の非凡さでしょう。
 上橋作品はいつでも同時展開しているさまざまな場面が次々に切り替わっていく構成になっていますが、『鹿の王』がそれが結構頻繁に起き、しかも登場人物も多く、場面も複数同時展開であり、しかも登場人物の組み合わせが入れ替わりつつ、違う場所に旅に出たりするので、ちゃんと覚えて読んでいかないと、今誰と誰が一緒にいてどこにいるのかがわからなくなります。また、登場人物たちが話している内容を、他の登場人物が把握しているのかいないのかも覚えておかないと、「あれ?」となります。さらに、登場人物たちが嘘をつき合っていたり、隠していることがあったりして、いよいよ混乱してきます。しかし、そういう混乱も含めて面白く、次々とページをめくってしまうのです。そして瞞されていた登場人物たちと一緒に瞞されたりします。
 だまし瞞されるのは、舞台が複雑な政治的かけひきの場だからです。これも上橋作品ではお馴染みのものと言えるでしょう。ただ今回は感染症が事件の中心なので、身分の貴賤を問わず病にかかれば命の危険があるところが特徴的です。また、『獣の奏者』や『精霊の守り人』にあったような古代の言い伝えや神話の話は中心ではありません。医療に関する話の中で、近代的な医療の考え方と、伝統的な医療が対立するような場面に少し出てきます。この辺は作者のアボリジニー研究などが反映しているのかなとも思いました。また最近見直されてきている漢方の考え方も。
 主人公の一人であるホッサルは新薬を開発して一人でも多くの人を救いたいと考える若き天才医師です。感染症で滅んでしまった一族の末裔で、顕微鏡などを駆使して病の根源を突き止めようとしています。現在の国の支配層である祭司であり、医師でもある人々とは意見が食い違う場面が多々あります。祭司たちは医療を行いながらも、助からない命は神の采配によるものと受け入れる姿勢をとっています。ホッサルが開発している新薬は、免疫を使った治療なのですが、祭司たちは獣の血から作ったものを人間に入れることは穢れであると言って許しません。治る可能性があるのに、くだらない迷信で治療を受けさせないのはばかげているとホッサルは怒りますが、読者である私たちはいろいろと考えさせられるところです。宗教上の理由で輸血を拒否して子どもを死なせて問題になった事件がだいぶ昔にあったと記憶していますが、そんなことも思い出します。また、何を病と考えるかという線引きの問題もあると思います。感染症などはまだわかりやすいのかもしれませんが、たとえば出生前診断のような技術が発達して、予め障がいのある子を産まないということが技術的に可能であるとしても、そうするのが最善かどうかは難しいところです。障がいと病いは少し違うかもしれませんが、どこで線引きをするべきか難しいという点では同じです。祭司が獣の血を人間に入れたら穢れてしまうと考えることを非科学的だと笑うのは簡単ですが、そのようにして非科学的なものを笑いとばして作られた私たちの世界はどれだけ幸せでしょうか。治療の甲斐もなく、感染症で亡くなった人の遺族に祭司医が「神は見ておられる」と語りかける場面で、作者は「人の力では及ばぬところへ来たときは、祭司医の方が、人を救えるのかもしれない」と語らせています。こうした理屈の及ばないことへの畏敬の念は、たぶん非科学的なものを笑い飛ばす時に現代人がどこかに吹っ飛ばしてしまったものです。この理屈では割り切れないものへのまなざしは、いつも筆者にあります。この作品のもう一つのテーマである、愛の問題です。もう一人の主人公であるヴァンは、家族を失い、死に場所を求めて戦っていた戦士でしたが、偶然拾った幼い女の子や、感染症から生き残ってしまったために身につけた不思議な力のために政治的な争いに知らず知らず巻き込まれ、その過程で知り合った人々との間に、新しい結びつきを作っていきます。血のつながりはないけれども家族となったこの人々のために生きていくヴァン。そしてその人たちにとっても家族となったヴァンに付いていく人たち。利害や身分や民族や国などのさまざまな枠組みとは関係なく情愛で結ばれている関係に頭ではなくからだでつながっていく、そういう繋がり方があると教えてくれます。 ヴァンは感染症から生き残ったあと、異常な嗅覚を身につけます。そのにおいによって多くの危機をくぐり抜けていったりします。嗅覚というのは一番原始的な感覚であると聞いたことがあります。人と人との関係も実はにおいによって左右されているなんて話も聞いたことがあります。獣同士はにおいで相手を判別したり、なわばりを確認したりしますが、人間もそういう部分は持っているのかもしれません。作品中ににおいの描写がたくさん出てきます。敵をみつけたりする場面にも出てきますが、多くは情に関係するところです。
「ユナの、日向の匂いのする髪に顔をうずめ、ヴァンはしっかりと、その幼い身体を抱きしめた。」ここはこの表現で十分です、感情を表す言葉を使う必要はない。作者の力を感じるところです。