JR上野駅公園口

JR上野駅公園口

JR上野駅公園口

 JR上野駅を描写している主体が何者なのか、なかなかわからない。物語が進んで行くにつれ、どうやらこの男はすでに死んでいる、幽霊のような存在であることがわかってくる。物語は途中からこの男の人生を回想する形になり、その最期の時を迎え(おそらく山手線に飛び込んだのだろう)、さらにその孫娘が3・11での津波に飲み込まれて死んでしまうところで終わる。
 東北から高度経済成長を支えた出稼ぎ労働者たちが、上野駅にホームレスとして棲み着いている。もちろんバブル後のもっと若い世代のホームレスもいる。そこに「山狩り」と称する清掃活動が時々行われる。ホームレスの日常を悲愴感を込めて書くのではなく、すでに死んでしまった男の目を通して淡々と描く。清掃活動が行われるのは、天皇やその家族が上野駅に来るときである。日本の最も聖なる存在と、最も汚れた存在が交差する場所。
 男は出稼ぎを続けて家族を養った。しかし息子は早死にしてしまう。妻にも先立たれる。娘夫婦の世話になっているが、自分の世話のために孫が束縛されている気がして、かつて出稼ぎで行った上野へ男は再びやってくる。ホームレスとして。
 「ホームレス」は「ハウスレス」ではないのだ、とは誰かから聞いた言葉だ。男にはホーム(故郷・家庭)がない。出稼ぎでしか生計を立てられない地方の男たちは、家族を養いながらも、顔を合わせることのない子どもたちから親しまれていない。貧しいゆえに子ども達に十分な楽しみを与えられない。それでも大人まで育て上げた息子に先立たれ、故郷も娘たちも津波にさらわれ、そこには原発で人の住めなくなったホーム(故郷)が残されている。
 柳美里は何も説明していないが、説明は不要だろう。東北は3・11で初めて被害を受けたわけではない。この日本の中でずっと差別され続け、今でも差別されている。対極には天皇がいる。天皇は中心だ。この物語では天皇とこの男が同じ年、息子と皇太子が同じ年に設定されている。同年に生まれた男たちがどうしてこんなにも違うのか。柳美里は説明をしない。答えもない。しかしこの不条理に対する怒りが感じられる。淡々と描かれ描写されているのに、こんなにも表現ができる。