虹は私たちの間に

虹は私たちの間に―性と生の正義に向けて

虹は私たちの間に―性と生の正義に向けて

 LGBTについて学んでいる時に紹介された本だったので、「そういう本」として読み始めたのですが、実際にはかなりしっかりとした神学書です。へブル語聖書(筆者は旧約聖書、新訳聖書という言い方はキリスト教を中心とした偏った用語として使用せず、へブル語聖書、キリスト教証言書と呼びます。これは筆者の独創ではなく、多くの神学者が使っているようです。そしておそらく日本ではほとんど知られていないのでしょう)を原語から忠実に訳しながら、ユダヤ教の神は厳しい父性的な神であるという通説を次々と覆していきます。また人が創造された箇所から丁寧に解説していって、本来人は異性間の結びつきのみを志向して作られた存在とは言えず、聖書が同性愛を断罪しているとは言えないということを、知的に解き明かしていきます。そもそも神が「父なる神」という男性イメージで描かれているということ自体がテキストを無視した恣意的な読みであることをテキストそのものを示していきます。むしろ神は女性的な姿、受容する神としてヘブル語聖書においても語られています。神が唯一の一神教として一貫しているというのも後世の考えであり、聖書にははっきりと神は複数形で書かれており、さまざまな神の伝承があったことは明らかです。その中には多様な性のあり方を許容する流れもあり、男性優位のそして男性に女性が従属する形での性のあり方を正しいとする流れもあり、後者が支配的な流れになって現在に至っています。しかし聖書には筆者が掘り起こし指摘しているように、多様な性を許容し、女性が女性として認められた流れが存在した痕跡がそこここに残っているのです。
 筆者はキリスト教証言書にもおいても、従来の聖書解釈を覆すような大胆な説を提示していますが、それらは決して荒唐無稽なこじつけではなく、むしろ従来の男性中心のヒエラルキー社会を肯定しようとして起きた聖書編集上のこじつけをあばいていきます。聖書が「神の言葉」として一字一句動かせない聖なる言であるというのは、思考停止に陥る危険な思想です。聖書は神の啓示によって行動した人間達が書いた書物であって、いわば神の、人による解釈でしょう。キリスト教ローマ帝国の国教となる過程で、ローマの家族形態に反するような、多様な性、多様な家族形態は否定されたと筆者は指摘します。キリスト教証言書にはさまざまなテキストがあったことは知られていますし、そのいくつかは日本語でも読めます。何が聖典とされるか、はその時代背景を無視しては語られません。神の言葉が、人の社会的・歴史的な背景によって取捨選択されたのです。その中にはイエスマグダラのマリアと婚姻関係にあると読めるものや、イエスが同性のパートナーを持っていたと読めるテキストがあります。ヨハネによる福音書が女性弟子グループによって書かれたという説があるそうですが、筆者の解説を読んでいると、納得のいく場面が多々あります。
 筆者はイエスの革命性と保守性の両面を詳細に検討しています。家族形態の自由さ、性別による役割の自由さにおいてイエスはローマにとって危険思想の持ち主であった。異邦人宣教にイエスは積極的ではなかった。パウロの宣教時代にイエスの思想は変質させられてしまったと筆者は見ます。筆者の学者としての見事さは、パウロでさえも、同じ土俵で批判しているところです。この筆者の姿勢と、パウロや他の弟子たちを聖人に祭り上げてその言葉をありがたがって盲目的にしたがっている姿勢と、どちらの信仰を神はよしとするだろうか。ましてや、聖書を根拠にして同性愛を断罪するような愚を犯すことはみこころに叶うとはとうてい思えない。それは自らの価値観・イデオロギーを、聖書の恣意的な選択と解釈によって主張しているだけだからである。筆者が言うように、聖書を根拠にして同性愛を断罪する人は、聖書の他の箇所もきちんと守らなくてはならないはずだ。しかし実際にはそうしていない。聖書といえども時代の制約から逃れることはできない。では聖書には価値がないのか?そうではあるまい。何重にも修飾された言葉を取り除き、歴史的な考証を行って「脱構築」し尽くしても残るものがある。聖書を字義通りに受けとめようとするのはむしろ安易な態度である。真摯に聖書のテキストに向かい、批判し尽くすことが最も信仰に篤い態度ではないのか。