虹は私たちの間に
- 作者: 山口里子
- 出版社/メーカー: 新教出版社
- 発売日: 2008/07/01
- メディア: 単行本
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筆者はキリスト教証言書にもおいても、従来の聖書解釈を覆すような大胆な説を提示していますが、それらは決して荒唐無稽なこじつけではなく、むしろ従来の男性中心のヒエラルキー社会を肯定しようとして起きた聖書編集上のこじつけをあばいていきます。聖書が「神の言葉」として一字一句動かせない聖なる言であるというのは、思考停止に陥る危険な思想です。聖書は神の啓示によって行動した人間達が書いた書物であって、いわば神の、人による解釈でしょう。キリスト教がローマ帝国の国教となる過程で、ローマの家族形態に反するような、多様な性、多様な家族形態は否定されたと筆者は指摘します。キリスト教証言書にはさまざまなテキストがあったことは知られていますし、そのいくつかは日本語でも読めます。何が聖典とされるか、はその時代背景を無視しては語られません。神の言葉が、人の社会的・歴史的な背景によって取捨選択されたのです。その中にはイエスがマグダラのマリアと婚姻関係にあると読めるものや、イエスが同性のパートナーを持っていたと読めるテキストがあります。ヨハネによる福音書が女性弟子グループによって書かれたという説があるそうですが、筆者の解説を読んでいると、納得のいく場面が多々あります。
筆者はイエスの革命性と保守性の両面を詳細に検討しています。家族形態の自由さ、性別による役割の自由さにおいてイエスはローマにとって危険思想の持ち主であった。異邦人宣教にイエスは積極的ではなかった。パウロの宣教時代にイエスの思想は変質させられてしまったと筆者は見ます。筆者の学者としての見事さは、パウロでさえも、同じ土俵で批判しているところです。この筆者の姿勢と、パウロや他の弟子たちを聖人に祭り上げてその言葉をありがたがって盲目的にしたがっている姿勢と、どちらの信仰を神はよしとするだろうか。ましてや、聖書を根拠にして同性愛を断罪するような愚を犯すことはみこころに叶うとはとうてい思えない。それは自らの価値観・イデオロギーを、聖書の恣意的な選択と解釈によって主張しているだけだからである。筆者が言うように、聖書を根拠にして同性愛を断罪する人は、聖書の他の箇所もきちんと守らなくてはならないはずだ。しかし実際にはそうしていない。聖書といえども時代の制約から逃れることはできない。では聖書には価値がないのか?そうではあるまい。何重にも修飾された言葉を取り除き、歴史的な考証を行って「脱構築」し尽くしても残るものがある。聖書を字義通りに受けとめようとするのはむしろ安易な態度である。真摯に聖書のテキストに向かい、批判し尽くすことが最も信仰に篤い態度ではないのか。