父とショパン

父とショパン

父とショパン

作者の崔善愛(チェ・ソンエ)さんは、在日韓国人の二世でピアニストです。指紋押捺拒否裁判で一時期有名になりましたが、指紋押捺制度も廃止され、そうしたことが在日朝鮮・韓国人にされていたことを知らない人も多いでしょう。
 本書は大きく二部構成になっている。?部「父とわたし」?部「ショパンとわたし」。崔さん自身は日本で生まれ、韓国語も話せず、生活も日本風の生活しか知らないために、父が何に憤り、どうして闘っているのか(父・崔昌華は日本でキリスト教の牧師をしながら反差別運動に一生を捧げた。牧師をしながら大学に通い、国際法を修めた。36歳で八幡大学法学部を卒業、44歳で福岡大学法学部博士課程を修了。NHKに対し、名前の言語読みを求める訴訟を起こし、指紋押捺拒否裁判、再入国不許可取り消し訴訟、居住期間短縮取り消し訴訟などを国に対して起こした。朝鮮半島では日本語教育を強制されてため、韓国語を自由に扱うことはできない)、理解できなかった。しかし指紋押捺について考える中で、戦前から続く朝鮮人そして在日に対する差別的な扱いに気づいていき、国家と対峙せざるを得なくなる。指紋押捺拒否裁判は外国人が犯罪を犯すことを前提とした差別的な制度であるというまっとうな主張が全く受け入れられない。何度も有罪判決を受ける。1981年に始めた裁判はなかなか終わらない。外国人登録のための指紋を押さなければ、再入国許可を取り消される。日本から一度出たらもう帰ってくることはできない。外国人として在留許可を申請しなかければならない。崔さんはピアノの勉強のためにアメリカへ留学するが、一時帰国時に特別永住資格(旧日本人であった在日に認められている)を剥奪され、外国人扱いとなった。1989年、最高裁に上告中だった指紋押捺拒否裁判が昭和天皇の死去にともない「恩赦」となったが、崔さん父娘はこれを拒否した。どうして指紋押捺天皇の恩赦によって解決されようとするのか、これは指紋押捺制度の源に遡る。外国人登録法の前身は外国人登録令であり、これは昭和天皇が最後に出した勅令であった。1947年5月2日(日本国憲法施行の前日)に大日本帝国憲法下で公布されている。崔さんは天皇に「赦される」屈辱を認めなかった。恩赦拒否をした日より脅迫電話や手紙が舞い込んだ。
 天皇の軍隊に侵略され、皇民化政策により言葉も文化も名前も奪われた在日が、天皇から赦されるというのは(しかも昭和天皇はもう死んでいるのに)、どう考えても倒錯である。
 ちなみに指紋押捺制度は韓国政府との協定により、特別永住資格者には1992年に廃止されている。しかし外国人登録証の携行義務など差別的扱いがなくなったとは言えない。
 崔さんは娘が学校に行くようになると、今度は「君が代」問題と関わらざるを得なくなった。国旗国歌法が制定され、強制はしないと言いながら事実上の強制であることに苦しみながら関わっていく。娘も入学式や卒業式で起立しない。かつて朝鮮半島皇民化教育がされた時も、強制ではないと言われていた。しかし実際には朝鮮語を使えば殴られ、首に罰札をかけられ、日本語を強要された。そうした父の経歴を知る者に国旗国歌法の制定はどれだけ苦しいだろうか。
 第二部ではポーランドの作曲家ショパンとの出会いについて崔さんの音楽修行時代のことが語られます。アメリカの書店で偶然ショパンの手紙を手に入れた崔さんは、これまでショパンを全く分かっていなかったことに気づく。また自分が指紋押捺拒否をして日本に帰れなくなっている現状と重ねて亡命者であるショパンの人生と父の人生、自分の人生が重なり、初めて父の人生、その怒りと悲しみを理解できたように思う。『父とショパン』の題名はそこから来ている。ショパンの生まれた国ポーランド朝鮮半島とよく似ている。強国に挟まれ、しばしば侵略され、地図上から消えている。ショパンがパリに亡命していた頃も、ロシア・ドイツ・オーストリアに分割されて、ポーランドという国は存在しなかった。ショパンワルシャワに残って革命戦士たちと闘いたかったが、音楽の才能を惜しむ多数の助力者たちの手で外国に送り出される。ショパンはもうポーランドに帰ってくることはできないのではないかと思いながら故郷を去り、その予感通り異国の地で亡くなる。崔さんの父も朝鮮半島に生まれたが、地図上から消され、日本へ移り住み差別に苦しみながら差別と闘い続けてなくなった。朝鮮半島に帰ることもなかった。ショパンロシア皇帝から直々に宮廷ピアニストとして招かれるが、私は亡命者です。それ以外の呼び名はありませんとこれを拒絶する。ショパンはその音楽にポーランドの思いと、祖国を奪われた怒りと、革命への希望を込めた。崔さんは在日としてショパンの音楽にやはり祖国を奪われ、未だに差別されている同胞への思いを込めてピアノを弾く。