向田邦子との二十年

向田邦子との二十年 (ちくま文庫)

向田邦子との二十年 (ちくま文庫)

 久世光彦氏のことは、NHKの「知恵泉」という番組で向田邦子の特集をしているのを観て知りました。世代的に「寺内貫太郎一家」を観ているわけではないので、書いてあることも「なつかしい」というよりは、昔はそうだったんだと思うばかりです。考えてみれば向田邦子も戦争を知っている世代で、もうだいぶ昔の人になってしまいました。久世さんが本書で何度も向田邦子の読み手が世代を超えて次々と現れてくるのを驚異的としているが、私もそう思います。向田邦子はいつでも「最近亡くなった人」みたいな感覚です。下手をすると現役でまだ書いている人のような感覚があります。
 私が向田邦子を知ったのは、中学2年国語の教科書に載っている「字のない葉書」という教材です。今でも定番の作品として採録されていますし、授業での反応もいい良品です。時代が変わっても中学生の心を引きつける魅力の秘密は普遍的な心情を書いているからでしょう。父の娘への愛情、家族の絆、家族から離れる悲しさ、淋しさ、再開する喜び。そういう心の動きはどんなに時代が変わっても理解できなくなることはない。実際、「字のない葉書」に出てくる道具立てのほとんどはもう身の回りにはありませんし、全員が携帯を持っているような時代にあって、「手紙」や「葉書」をやりとりすることだって稀になっています。でも父から大人相手のような正式な手紙をもらった時の面映ゆいような気持ちや、葉書に○や×だけで書かれた「文面」から伝わる心情などは容易に想像できます。
 久世さんは向田邦子のドラマやエッセイについて、日常を描いているのだけれど、それは今からするともう失われてしまった、あるいは失われつつある光景だったと言っています。「寺内貫太郎一家」を観て、久しぶりにちゃぶ台を引っ張り出して家族で囲んで会話が弾んだという感想がテレビ局に寄せられたりしている。また、エッセイではわざと少し古風な言葉を使っているとも指摘しています。なるほど言われてみると難しい言葉が結構使われていて、しかしそれでも中高生に今でも読もうと思う人が多いのにはそれだけ魅力があるからなのでしょう。
 さて、本書は向田邦子との様々なエピソードを久世さんがつぶやくように書いているエッセイなのですが、何ともいえない味わいがあって引きつけられます。ただ、この味を味わうには少し人生経験を積んで、くたびれてこないとだめなんだろうなと思わされます。人間のだめさ加減を知った上で現れてくる優しさをじわりと描いています。向田邦子の優しさもそうした裏にある誰にも見せていない闇の裏付けがあってのものではないかと推測しています。久世さんの亡くなって、あるいは亡くなったからこそ書きたい向田邦子への思いが染み出している、しかしそれでいて湿っぽくはない良質のエッセイです。