ユング自伝

ユング自伝 1―思い出・夢・思想

ユング自伝 1―思い出・夢・思想

ユング自伝 2―思い出・夢・思想

ユング自伝 2―思い出・夢・思想

 精神科医カール・グスタフユングの自伝です。幼年期から老年期までの生涯について事実の列挙ではなくユング自身の心の遍歴が記されている伝記です。ユングは自分について語るのを嫌がっていたそうですが、周囲の強い説得の元、80歳を超えてから自伝のためのインタビューに答え、自伝を作成しています。
 ユングは幼い頃から白昼夢や幻、不思議な夢をみることが多く、そこから独自の生命観、宗教観を身につけていきます。父はキリスト教の牧師で神学者でもありましたが、父にはそうした神秘的な素養はなかったようで、むしろ母親にそうした素養があったようです。ユングは教会の神理解や聖書理解に反発を感じ、教会に行くのもやめてしまいます。
 医学の道に進んだユングは周囲の反対を押し切って精神医学に進みます。当時の精神医学はまだ認められて織らず、患者の扱いもひどく、精神科医の地位も低かったのです。しかしユングは患者の言う一見荒唐無稽な話を読み解き、患者の心の問題を探り当て、患者に語らせることで治療することができることを発見しました。当時は医者が患者を診て勝手な病名をつけていたのです。ユングはこうして心の問題に深く分け入っていきます。
 当時心(特に無意識)の研究においてはフロイトが先輩としていましたが、ユダヤ人であったフロイトはなかなか受け入れられず、苦労していました。ユングフロイトを強力に援護して深層心理学の確立に協力します。フロイトユングはこうして親子のような親密な関係を結びますが、ユングフロイトがすべての無意識の問題を性に結びつけて考えることに疑問を抱き、フロイトとは別の道を進みます。ユングは無意識の奥に集合的無意識の存在を見つけ、そこに人類の無意識に共通する「元型」を見つけます。その元型は神話や伝説の形で様々な民族の中に表現されています。こうしたユングの考えは発表時はまったく受け入れられず、ユング神秘主義者として学会から退けられます。ユングは近代科学が否定した錬金術やインドの曼荼羅、また初期キリスト教の今では異端とされているグノーシス派の研究に没頭します。精神と肉体を二分して、善と悪を二分して理解しようとする無理をユングは自身の神秘的な夢や幻の解釈から明らかにしていました。これはニーチェが指摘していることとも重なってきます。本書でもニーチェには何度か触れています。ただしユングニーチェを無意識との闘いに敗れてしまった人と言っています。確かにニーチェ自身は最後は発狂するような形で亡くなっています。ユングは無意識の世界に降りていくことを非常に危険なことと言っています。自分自身が崩壊する危険もあると指摘しています。ユングが見た夢で私の印象に残ったものとして、自宅の地下に降りていく夢があります。地下に降りていくとそこにはたくさんの古い書物があります。さらに地下があってそこはローマの遺跡が眠っているというのです。この夢は村上春樹が小説を書く行為を説明する時によく使っているイメージとよく似ています。また、村上春樹の小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は無意識の世界に降りていく危険と意味について語っている最も分かりやすい小説だと思います。光のまったく差さない地下に住む「やみくろ」や彼らの崇拝している「眼のない魚」など、ユングのいう元型の一種なのでしょう。元型は決まった表象として現れるのではなく、一つの可能態としてあるようです。ここで私は井筒俊彦の『意識と本質』を思い出します。瞑想によって心に深く入っていくと、様々なイメージが現れるがそれは文化に規定されるというお話です。西洋世界であれば、天使や悪魔が現れ、東洋世界であれば、仏や菩薩などのイメージが現れるというのです。ユングにしたがえば、これらは同じ元型から表象されていることになります。
 アーシュラ・K・ル・グィンは『ゲド戦記』の2巻で地下の地霊を崇拝する教団を描いています。そこにはアルハという巫女がおり、先代のアルハが亡くなるとその血筋の者が再びアルハとして転生してくるという形で信仰が受け継がれています。このアルハとなった少女がゲドと一緒にこの神聖で危険な暗闇を旅し、地上に生還して巫女であることをやめるのです。河合隼雄がその辺のことは詳しく書いています。こうした物語の中における男女の存在について、深層心理的には一人の人物のアニマ・アニムスであるとユングは考えました。男性の無意識の女性的な性質の人格化されたもの(アニマ)、女性の無意識の男性的な性質の人格化されたもの(アニムス)です。この心理的な両性具有性は、性を決定づけるのは男性(あるいは女性)の遺伝子の数が多いことであるという生物学的な事実の反映であるそうです。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』でも地下の世界に潜っていくとき、主人公の男性を助けるピンク色の服を着た太った女の子が出て来ます。彼女は地下世界をよく知って道案内をし、主人公がやみくろに喰われそうになるのを助けます。『ゲド戦記』でもゲドは闇世界をよく知っているアルハと巡り、地上に戻ってきます。
 ユングは自伝の最後でこう言っています。「他の人々と私の違いは、私にとって『境界壁』が透明であったことである。これが私の特性なのだ。他人にとっては、その壁があまりに不透明で、その背後に何も見えず、何もないと思えるとき、私には、その背後に生起することがある程度見え、それが一種の内的な確かさを私に与える……いったい何が私に生命の流れを見ることを始めさせたのか私は知らない。多分、無意識そのものか。あるいは、初期の夢か。それらは最初から私の道を決定していたのだ。」 また、こんな事も言っています。「創造的な人は、自分自身の生活に対して、ほとんど力をもっていない。彼は自由ではない。彼はデーモンによって把えられ、動かされているのだ。」
 ユングはあまりにも他の人の知らない真理を知りすぎ、周囲の人たちを待つこともなく先へ行ってしまったので、長い間理解されませんでした。今でこそ深層心理学者として知らない人はいないのですが、体験的にユングを理解できる人はある種の天才だけなのでしょう。その人たちはそうした力に突き動かされて、自分の望みとは無関係に突き進まされることになります。ユングはしばしば聖書を引用していますが、ヨブやパウロへの言及が多いです。パウロはエリートのユダヤ教徒で、生まれながらにローマの市民権を持ち、当時の世界語であるギリシャ後を自由に操るエリート中のエリートです。しかしそれらすべてを捨ててキリスト教に改宗し、キリスト教世界宗教へと発展させていきます。それはイエス・キリストに出会ってしまうという、ユング的にいうと「内的真実」によって進む道がいやおうなく定まってしまったからです。
 ユングは孤独の中で自分の道を歩むことの苦しさや悲しみを語っていますが、そこにこそ本当の自由や人との交わりもあると言っています。これは私のような凡人にとってもそうです。他の人のつくった理念や理想に自分をすべて預けてしまうような生はその人の生ではありません。そういう意味で思考停止して教義に従うだけの宗教者をユングは厳しく否定します。神を信じるとは、何も考えずにただ信じるということではありません。それは自分の内的真実と格闘することであり、孤独な作業です。
 ユングの自伝を読んで本当によかったと思っています。もっと以前に出会いたかったとも思いますし、40歳になった今だからこそ読むことができたのだとも思います。