舟を編む

舟を編む

舟を編む

 辞書を作る人たちを扱った小説であり、辞書を作るとはこういうことか!とよくわかる本だが、むしろ主題は一つのことに人生を賭けることのできる(あるいはそういう生き方しかできない)人たちとその周辺でそういう人たちを支えている人たちの生き様であろうと思う。
 一つの小説なのだが、連作作品のような構成になっている。第一章はまずは長年辞書編集者をしてきた荒木の語りから始まる、荒木が定年退職して馬締(まじめ)という名の真面目な青年を後継者として連れてくる話。第二章は馬締の話と馬締の初恋の話。第三章はちゃらんぽらんな態度で辞書編集部に勤務している西岡の話。第四章は華やかな女性向けファッション紙編集部から急に辞書編集部に回された若い女性岸辺の話。第五章ではついに辞書が完成する場面が語られる。「〜の話」と書いているが、登場人物も場所も同じであり、章を追うに従って次第に辞書編集が進んでおり、みんな少しずつ年を取ったり結婚したり子どもが産まれたりしている。焦点の当たる人物が章ごとに異なっていくだけで、物語の流れは一貫している。こういうスタイルで小説を書くのは力がいるだろうなと思う。よく破綻せずに書けるものだ。と同時にさまざまな登場人物の内面を書くことができるので、物語が立体的になって面白い。そういう意味では書きやすいのだろうか。
 始めに書いたように、この作品では一つのことに人生を賭ける人とその周辺の人が書かれている。周辺の人の思いをよく語っているのは西岡である。西岡は何に対しても一生懸命になれない。何でもそつなくこなす能力を持っているが、それ以上にのめり込むということはできない。たくさんの女性経験もあり、恋愛にも積極的だが長続きはしない。何となく一緒にいる女性がいるがつき合っているのかいないのかよくわからないままに縁が続いている。そこに馬締がやってくる。馬締は西岡とは正反対の人物で、言葉のことにかけては異常な執着力を示すが、その他の社会的な能力はほとんどない。そんな馬締にいつの間にか嫉妬していることに西岡は気付く。何かに一生懸命になれる人、のめりこめる人に羨望の気持ちを持つ。辞書作りに長年携わってきた荒木や松本先生もそういう言葉に取り憑かれてしまった人たちなので、西岡は疎外感を感じるようになる。しかし西岡の偉いところはそういう自分を否定するのではなく、彼らが不得意とすることを積極的に行って、馬締たちが一番能力を発揮しやすいようにお膳立てしていくところである。しかもそれを恩着せがましくするのではなく、あくまでちゃらんぽらんな姿勢のままでさりげなく行っていく。自分が辞書編集部から広告部へ異動になるということを隠しながら。これはもう西岡の異動が明らかになった場面だけれど、馬締と西岡が「西行」の語釈について話をする場面がある。そこで馬締は西岡が辞書編集部に絶対に必要な人間だと言う。西岡がそこで感動して涙を流しそうになる場面が感動的だ。引用してみる。
 うれしかった。もし、馬締以外のものが言ったのなら、同情か心にもない慰めだと受け取っただろう。西岡にはわかった。馬締の言葉は真情から発されたものだ。西岡は馬締のことを、辞書の天才だけど要領が悪く、自分とはまったく通じるところのない変人だと思ってきた。いまだって、そう思っている。学生時代に馬締が同じクラスにいても、まずまちがいなく友だちになることはなかったはずだ。そんな馬締の言葉だからこそ、西岡は救われる。要領が悪く、嘘もおべっかも言えず、辞書について真面目に考えるしか能のない馬締の言葉だからこそ、信じることができる。俺は必要とされている。「辞書編集部の無駄な人員」では、決してなかった。そう知ることの喜び、こみあげる誇り。
 馬締自身も始めにいた第一営業部ではただのお荷物社員だった。西岡が荒木に伝え、荒木が辞書編集部に引っ張ってきたからその才能を開花することができたのだ。どんな才能があっても、それを発見したり役立ててくれる人や場所がなければ埋もれたままである。自分にどういう能力があるかはっきり分かっている人もいるかもしれないが、わかっていない才能が自分にあるかもしれない。時と場所が合えばそれを開花させることができる。でもそれはあくまで物事の一面を支えるに過ぎない。他の面を支えてくれる人がいて初めて自分の才能も生きてくるのである。そんなことを考えた小説だった。