桜は本当に美しいのか

 著者の水原紫苑歌人です。実作者だけあって、和歌の解説が感覚的であるのが面白いです。もちろん通釈としての解釈もしてありますが、「こんな詠み方は凡人にはできない」とその理由も述べているのを見ると、なるほど和歌とはこのように読むのかと新しい目を開かれた思いがします。過去に著名な文学者がけなしている歌でも、これはいいと言ったり、逆に有名な歌でもよくないと言ったりしているのは、現役の歌人らしくさわやかです。文学はやはり自分の感性に拠って立つ以外にはないと思うからです。
 本書では「桜」が日本文学においてどう読まれてきたかを古くは『記紀』から現代の「桜ソング」まで読み解いていく意欲作です。新書という体裁上、特に後半はさらっと著者の現在の問題意識を表出して終わっていますが、とても面白く、ここから研究が発展しそうな内容です。
 花と言えば梅だった『万葉集』の時代に桜は実景として歌われていたが、時代が下るにつれて象徴化していく。長い和歌の歴史の中で桜の様々な形態が詠まれ尽くしてしまって、実際の花を詠まない、地面に落ちた桜(絨毯のようになっている)や、桜を待ち望む、あるいは惜しむ歌(「今」は春ではない)など広がりを見せていく。中世から後の能や歌舞伎などに見える桜の項は私がその方面に疎いため、筆者が熱を込めて書いているようなのに(筆者は歌舞伎などが好きなようで、○世○○が、という話が頻出する)、理解できずに残念です。軍国主義時代の桜の歌われ方については筆者は批判的で、西条八十の歌詞を罪深い歌と言っています。あとがきの最後は
 折しも、「歴史は繰り返すが、一度目は悲劇、二度目は茶番である」というマルクスのあまりにも有名な言葉を忠実に実行したいらしく、大根役者たちが下手な見得を切ろうとしている。とんでもない花吹雪の幕切れになる前に、舞台から引きずりおろさなければならない。
 と結んでいます。