ヤンキー化する日本

斉藤環氏の著書が好きでよく読んでいます。本書では「ヤンキー」という現象をめぐって、アーティストの村上�璧、ジャーナリストの溝口敦、建築家の隈研吾、タレントのデーブ・スペクター、小説家の海猫沢めろん歴史学者の與那覇潤と斉藤環が対談をしていきます。
 斉藤環がいう「ヤンキー」はいわゆる不良のようなイメージのものも含みながらも少し広い概念でとらえています。筆者の指摘するヤンキーは、バッドセンスな装いや美学と、「気合い」や「絆」といった理念のもと、家族や仲間を大切にするという一種の倫理観とがアマルガム(合金)的に融合したひとつの“文化”と言っている。その上で、現代日本ではこのヤンキー文化がかつてないほどの広がりをみせているのではないかと分析している。殊に第二次安倍内閣が2012年暮れに成立してからいっそう顕著になったように思われると指摘する。
 ヤンキー親和性の高い人は、コミュニケーションが巧みであるが、この「コミュ力」はお笑い芸人がロールモデルとなっている空気が読めて、他人をいじって笑いが取れる才覚であり、会話能力ではない。日本社会において、「コミュ力」のある「キャラの立った」人間にはインテリが束になっても敵わない。橋下徹の無双ぶりがそれを証明している。日本においては非ヤンキー的でありながら「コミュ力」の高い「立ったキャラ」は根源的な矛盾を抱え込んでしまう。筆者はこの「コミュ力」を「毛づくろい的コミュニケーション」と呼んでいる。キャラの相互確認だけで情報量の低い会話を無限に続けられる能力である。
 ヤンキーを表す言葉に「アゲアゲのノリと気合い」がある。気合い主義は日本人にあまねく共有されているという。この気合いは精神の力で肉体の限界はやすやすと超えられるとする発想だという。こうした精神主義のルーツは日露戦争にあるという。勝てるはずのない相手になぜか勝ってしまった。このことは太平洋戦争における「大和魂」につながっていく。筆者は例としてインパール作戦を挙げる。10万人の歩兵が送り込まれ、7万人が飢えと病で亡くなった史上最悪のダメ作戦である。司令官の牟田口廉也は、「皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がないなどは戦いを放棄する理由にはなぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん」と言ったそうだ。筆者は気合い主義の問題点を以下のようにまとめる。
 「気合い」主義の問題は、その個人が所属する(中間)集団からのプレッシャーを背景に、その個人が本来持っている実力以上の力を無理に引き出そうとする点だ。「大和魂」から「がんばれ」に至るまで、何気ない激励の言葉の裏に、個人を集団主義のほうに引き寄せようとする匿名の意志が潜んでいる。だから、個人主義に徹するものほど、この言葉を気味悪く感じるのだ。
 さらに治安システムとしてのヤンキー文化が筆者によって明らかにされる。例として「ソーラン節」が挙げられている。校内暴力で荒れていた稚内南中学校の生徒たちを更正させたとしてテレビを通して全国に広まった。かつて思春期に芽生えかけた反社会性のほとんどはヤンキー文化に吸収されてきた。そうしたかつてのヤンキー性は無害化されたソーラン節=ヤンキー文化として青少年の反社会性の回収先となった。ヤンキー美学は特攻服やソーラン節のような様式性を経て、フェイクの伝統主義=ナショナリズムに帰着する。絆と仲間と「伝統」を大切にする保守主義者が知らないうちにできあがっているという。
 こうした価値観の浸透した社会の行き着く先は、反知性的な行動主義であり、近代的な個人主義や公共意識とは無縁のものである。
 斉藤環は3・11以後に急に喧伝されるような「絆」の連呼にいち早く違和感を表明した人物であり、その感覚に私は共感する。行っていることが「善」であれば、結果が「善」であれば、それでいいではないか、どうして一生懸命していることにケチをつけるのかという考えもあるかもしれないが、目先の部分で「善」であってももっと大きな視点に立つと「悪」に反転してしまうというな「善」は確かにあるのだ。そうした力は知性の力によるのであるが、深く考えず「気合い」で目の前のことを手際よく感動的に成し遂げることに長けた人たちが世の中を動かしているような危うさを感じる。知性による意見は回りくどく分析的で、とてもワンフレーズでは済まない。さらにそれを多くの人にわかってもらおうとするならば、膨大な時間がかかってしまう。とにかく「すぐ」「かんたんに」「わかる」が支配している世界で、いろいろな意見を聞きながら折り合える点を探るなどということは不可能なのだろうか。でもそれを諦めるということは民主主義を諦めるということなんだろう