EQこころの知能指数

EQ~こころの知能指数

EQ~こころの知能指数

 本書は1995年にアメリカで出版されてベストセラーになった本である。「EQ」という言葉は筆者自身が使っている言葉ではなく、IQに対して分かりやすいので広まった言い方のようで、訳本では筆者に了承を得て「EQ」を使っているそうだ。原題は『EMOTIONAL INTELLIGENCE Why it can matter than IQ』である。
 もうすでに20年近く前に書かれたとは思えない新鮮さであり、現代の日本でこそ読まれるべきではないかと思われる。というのは、本書が書かれた時代背景として、犯罪の増加・低年齢化が挙げられるからである。当時のアメリカでは青少年の銃乱射事件や麻薬がらみの凶悪犯罪、低年齢での妊娠・出産、離婚率の増加に直面しており、凶悪犯罪を起こしてしまう青少年が「紛争を避ける能力にきわめて欠けている」という専門家の分析も出ていた。『EQ』は情動教育の重要性を訴える。現代ではSST(social skill training)と言われているがその一部だと思う。殴り合いのケンカになる前に冷静になってお互いに言葉にして自分の感情をコントロールする術(自制)を学ぶべきだと筆者は述べ、学校や医療機関で実験的に行われている具体例を挙げていく。
 本書を読んでいると現在の日本にこそ必要な本だと思わざるを得ないことが残念だ。日本はアメリカの後を追いかけているとはよく言われることだが、悪いことは追いかけないで済むなら追いかけないで済ましたいものだ。銃の乱射事件が日本の学校で起こることは考えにくいが(そうあってほしいものだ)、急に包丁を振り回したり、通行人の列に車で突っ込んだりする事件が増えているような印象(あくまで印象だ。犯罪の数自体は減っているらしい)がある。そしてその背景には社会的な孤立が原因と思われるものが多く、その孤立を招いた理由を考えてみると「EQ」の低さがあるような気がしてならない。「EQ」は簡単に言えば「共感する力」である。その場にふさわしい言動をしたり、相手の立場になって思いやる想像力など幅広く含む数値化されにくい力、それが「EQ」である。SSTもそうだが、最近の教育界では発達障がいの分野で注目を集めている能力と言える。どういう障がいでもそうだが、障がい者が暮らしやすい社会は間違いなく健常者にとっても暮らしやすい社会である。共感する力の欠如は社会的な孤立を生む。社会から疎外された人の憎悪は時に凶悪犯罪の形で社会に跳ね返ってくる。それはIQの高さを競うような教育では育てられない。むしろ疎外を生むばかりだ。筆者はしばしばSAT(大学進学適性試験)や知能テスト(IQを測る)の有効性について疑問を投げかけている。それは知性の一部分を測ることはできるが、それらは社会において最も大切な力とは言えず、EQの高さこそが優れたチームリーダーや高い交渉能力や人間的な魅力を生み出すのだと。そう考えると日本がセンター試験を廃止(これ自体にはそう反対でもないが)して日本版SATを導入しようとしているのは正気とは思えない。
 本書の第一部では、脳と情動の関係について一般的に論じている。脳科学の分野が発展し今までは測定できなかったことがわかるようになった。最近ではおなじみだが、何か特定の作業をしている時に、脳のどの部分が活発に動いているかなどを動画で確認できるあれだ。また、さまざまな事故によって脳の機能障害を起こした人についてのデータが、脳の機能の分化を説明してくれる。たとえば、事故後に日常生活の一切に問題がないのに、言葉を話すことだけができなくなるとか、相手の感情を読み取ることも自分の感情を表明することもできなくなったとか、まるで別人のように陽気になったとか、反対に憂鬱になったとか、脳の特定の分野が破壊されると、私たちが通常「こころ」と言っているような機能が働かなくなったりすることがわかってきたのである。そうした研究の中で、これも今では目新しくないが、高度なコミュニケーションは大脳新皮質が重要な役割を担っていることがわかってきた。ところが、原始的な情動反応は爬虫類の脳と言われる、原始的な部分が関与しているという。これらは人間がまだ進化の途上にあった時には生き残るために必須の機能だったが、現代人の生活には合っていない部分があるという。たとえば、敵に遭遇した時にすぐに逃げられるように体温、心拍数が上がり、足に血液が集中し、発汗するというような機能は生き残るために必要だし、戦うとなれば、大声を出して威嚇し、飛びかかれる体勢を整えなければならない。ところがこの情動を司る回路は拙速であり、しばしば信号を読み違える。敵だと思ったものが、何かの影に過ぎなかったりする。それでも生き残るためには間違っているか合っているかどうか紛らわしい場面では反応していることが正解である。しかし現代社会においてそこまで生死に関わる場面は少ない。それなのにこうした本能的な反応がしばしば顔を出してしまう。いわゆる「カッとくる」場面である。これを筆者は「情動のハイジャック」と呼んでいる。脳には二つの回路がある。一つはこうした本能的に瞬時に反応する回路。二つ目は大脳新皮質を通って理解した上で行動する回路。こちらの回路は正確だが時間がかかる。1秒も差はないが、その零点何秒が、生死を分ける場面も古代には数多くあったはずだ。怒りにまかせて銃をぶっ放してしまう少年の脳では、情動のハイジャックが起きている。普段冷静な人でも、複合的な刺激にさらされるとハイジャックが起きてしまう。たとえば、長男が悪さをしてカッと来ているところへ、重ねて下の子がおもらしをして泣いているような場面で、下の子に金切り声で「うるさい!」と言ってしまう母親などである。一つひとつの事柄には冷静に対処できても、複合するとハイジャックが起きてしまう。それはハイジャックに起きる閾値が低くなってしまうからである。そしてこの閾値が高い人や低い人がいるのは、生得的なものというより、生育歴に関連があり、教育によって矯正できる。
 EQは共感する力だが、その原型は母親と子どもの情動調律にあるという。情動調律とは母子の間に情動の共有が起きている状態である。子ども自身が「自分の感情は共感をもって受けとめられている、自分は受け入れられ相手にしてもらっている」という感覚である。この親子間での情動調律のあり方が、成人後の人間関係に影響を与えるとしている。成人後の情動調律はセックスが最も近いという。幼年時の情動調律がうまくいかなかった子どもは、成人後も情緒に深い傷を残す。虐待を受けて育った人たちへの観察によれば、そういう子どもは周囲の人間の感情を過剰に警戒するようになるといい、大人になっても周囲の人間の感情を察知する能力にすぐれているという。これはよくわかる、いわゆる「顔色をうかがう」子どもは情緒的に安定していない。
 本書では社会的な知性としてEQをとらえ、人間関係の輪に入っていく能力や、結婚生活を続けていく能力など、具体的な例を挙げながらわかりやすく解説をしていく。また、医療と情動の関係についてもかなり踏み込んだ発言をしている。心のケアが病状の回復と関係があるなどは私たちの時代からすると広く認められていることだとは思うけれど、1995年にここまで言っているのは新しいと思う。同じ末期ガンの患者でもコミュニケーションをたくさんするようにしたグループとそうでないグループとでは、コミュニケーションをしたグループの方が二倍も長生きだったという実験結果が紹介されている。現場の人間にとっては自明でも、科学的ではないという理由で退けられてきた分野だと思う。同じように教育の分野においても、情動教育は長らく未開発の分野で、学校はIQで測れるような能力を伸ばすことばかりが強調されてきた。しかしこれも現場の人間にとっては自明だが、情緒が安定していないと学習事項は頭に入らない。そのことに脳科学と心理学の立場からアプローチして科学的に説明し、カリキュラムに情動教育を取り入れた実験校も作っていることは注目してよい。繰り返しになるが、95年にアメリカでここまで進んでいるのに、今日本がしようとしている教育はむしろ逆行している。家庭でのしつけがむずかしくなり、共同体全体での教育力も望めない中、アメリカは学校教育からはじめて、共同体、家庭へと情動教育を広めようとしている。日本でも共同体の崩壊、家族の崩壊が語られて久しい。それなのに精神論でしつけは家庭や共同体でというのは無理がある。もちろん、今のアメリカの教育がうまくいっているのか私は知らない。ダニエル・ゴールマンの考える学校教育がどこまで実践されているのか知らない。むしろ商業主義化してしまった教育になりはて、95年よりも後退しているかもしれない。それにしてもここで語られていることは間違いなく大切で効果があり、日本でこそ取り入れて実践できたらいいのにと思う。それは社会全体の安定につながるものだからだ。