亡びゆく言語

亡びゆく言語を話す最後の人々

亡びゆく言語を話す最後の人々

亡びゆく言語を話す最後の人々

 言語学者である筆者は、世界中を歩き回り、話者がいなくなりつつある言語を探し、録音・撮影をしている。
 話者がいなくなってしまう要因は様々だが、少数民族への同化政策、特に学校教育が挙げられる。自分の言語を使うことを禁じられ、自分の民族や言語を劣ったもの、遅れたものと思わされ、言語を使わなくなっていく。学校に通う子どもが使わなくなり、高齢者が亡くなっていくにしたがって言語が消滅してしまう。そうした消滅の危機に瀕した言語のある場所をホットスポットいい、シベリアやオーストラリア、アメリカ西海岸、南アメリカなどに特に多く存在している。他にも筆者はアフリカ、モンゴル、チベットなどあらゆるところに少数民族の話す話者の少ない言語を採録して歩いている。
 言語が消滅することは何を意味するのか。本書の中でも特に後半にこの問いにまつわる様々な意見を紹介している。筆者の立場は明確で、ある言語が消滅することは、その言語体系が持つ人類の知恵を永久に失ってしまうことだと考えている。その文脈で筆者が言うには、言語が文字化されたのは人類史からいえば最近のことで、それに先立つ数千年に及ぶ無文字の時代があり、記憶だけに頼って民族に伝えるべき知恵が脈々と受け継がれてきたのであり、現在も文字を使わない民族はその伝統をずっと守ってきた。それが失われてしまうことはとてつもなく大きな人類の損失に違いないと考えている。一方で、英語やロシア語やヒンズー語などの話者のたくさんいる「強い」言語が残り、少数民族の話す「弱い」言語が淘汰されていくのは当然であると主張する言語学者もいる。中には言語が最終的に一言語になり、すべての人が誤解なく意志の疎通を行えれば、争いもなくなると主張する人もいる。母語がたまたま強い言語に生まれた人は、少数民族の言葉を奪われる悲しみをなかなか理解できないようだ。
 筆者は言語の多様性が保たれていることが人類の知恵の豊かさを担保すると考えている。実際本書にはたくさんの少数民族たちの驚くべき知恵が紹介されている。たとえば、森を歩いている時に、生えている草が何に効く薬草なのか、どのような毒を持っているのか、どの道をいけば安全なのか、この足跡はどの動物のものなのか、あの鳴き声はどの鳥のものなのか。あるいは雪原を進む時に、どの氷の上なら橇で走っても大丈夫なのか、空を見てあと何時間ならここにいても安全なのか、すぐに逃げなくてはならないのか。あるいは草原を行く時に、どちらが労力を少なく登れる丘の低い方なのか、家族は今草原のどこにいるのか、などといった生きていくために必要な知恵が文字ではなく、口伝えで何千年にも渡って受け継がれているのである。
 本文から抜き書きしてみる。少数民族の知恵とそれが失われていく悲哀がよくわかる箇所だ。

 海原を見わたす砂浜で、ニールはある場所に来ると足を止め、軟らかな砂を両手で掘りはじめた。足元の地面は完全に乾いているように見えたが、二フィートも掘ると水が出てきた。「こういうことを私たちは何千年も前からやってきた。みんなには何をやっているのか絶対わからないだろう。誰ひとりとして、これを守ろうとしない。大切にして、続けていこうとしない。子どもにも大人にも教えなくてはいけないんだよ。ここにあるもの、この土地に、この環境にあるものが、どれだけ貴重か。そして泉を守らなくてはいけない。誰ひとり知らないんだ、ここに水が湧くなんて、誰も考えやしない。」
 彼は続ける。「ここはすべてソングライン(オーストラリアの先住民族に伝わる、生命の創造がなされたときに創造主が通ったとされる道)の土地で、若者はみなソングラインを知る年齢になるとここをたどる。水がたくさん見つかるからね。小さな泉、水が生きているような場所。私たちはこれを“ドリームタイム”として伝えている。こういう泉が、ここにはたくさん存在していて、見つけることもできるんだ。だが町の近くになると、湧きだし口のほとんどが埋められ、その上にビルが建てられてしまっている。ここの人間を“アボリジニの人々”を、町から追い出したかったからだ。そしてずっと締めだしたままにした。この居留地は一九〇五年の法律でアボリジニのために作られた。私たちは動物保護法で規制されたのさ。動物んんだよ、私たちは。野生の動物の一種さ。人間とみなされず、一九六七年まではオーストラリア市民にすらなれなかった。私は自分の母国で違法な存在として生まれたんだよ。私たちには、いわば普通の人間としての権利が与えられなかった。普通の人間じゃなかったんだ。のけ者さ、いまだに二等市民だ。今でも普通の人間として扱われず、普通の人間として認めてもらえない」
 外から見ると完全に現代文化に順応している(トラックを運転し、携帯電話を使う)が、ニールのようなオーストラリアのアボリジニは、古代の知恵の宝庫のたとえ一部であれ、なんとかつなぎ止めてきた。
 
 筆者は、現代社会では口承文芸がひどく見下されていると言っている。識字率の低さが発展の低さの指標とされる一方、口承率の高さが価値あるものとはされないと。なるほど確かにそうだ。本書を読んでいると、私たちが失ってものがどれだけ大きいものかが分かる。私は高度な科学によるテクノロジーに囲まれているが、そのどれも自分の手で作ることはできない。それどころかどのような仕掛けで動いているのさえわからない。電気が止まり、石油が供給されなくなり、水道が止まってしまったら、もうどうしてよいかわからない。森の中や草原や雪原に放り出されたら生きていけない。周りに食べられる草があり、泉の湧き出る地面があり、アザラシを狩る場所があっても、それに気がつかないし、気がついてもそれをどのように生きることにつなげられるのかその方法を知らない。
 自分の生まれた土地のあらゆる情報を知り、地名の起源を神話にまで遡って語ることができ、周囲に生息する動植物と共に生き、感謝してを食べ、あるいは薬にし、必要な道具を自作し、子どもたちに民族の歴史と誇りをすべて暗誦して語ることができるそんな大人が、たとえば日本にいるだろうか。地産地消などと最近は言われているが、食卓に上る食材のほとんどはどこで取れ、誰がどのように調理したかも分からないものばかりだ。薬は何が入っているかわからないものを飲み、自国の歴史はよく知らず、自分の住んでいる場所の地名起源などほとんどわからない。日本は豊かだと言われているが、果たしてどうなんだろうかと思ってしまう。
 もう一つ抜き出してみる。本書で紹介されていることの中でも一番魅力的だったところだ。

 歌を聴かせることによって、不機嫌で唾を吐き散らしてばかりいるラクダをなだめることができるなど、自分の目で見なければ、私も信じなかっただろう。(略)私の前には小さなエレス(「勇敢な」という意味だ)が立っていた。一二歳くらいの男の子で、体重40キロ程度だった。彼はラクダの鼻に回した手綱を持っていた。ラクダは明らかに不快らしく、鼻を動かしては耳障りな声で鳴いた。それでもエレスはひるまない。歯をむきだしたラクダから数センチというところまで自分の顔を近づけると、大きな声で短いメロディを繰り返した。音楽に乗せた命令のようなその歌は、吹きすさぶ風のなかでもはっきりと聞こえ、哀れなラクダに対して即座に効果を発揮したのである。ラクダはぱっと脚を折り、抵抗をやめて重い荷物を背負うことにしたかのように腰を沈めた。
 エレスが私の目の前で見せてくれたものは、遊牧民族が年月をかけて編みだしてきた、最高に優れた能力のひとつだ。彼らは動物の気分を読み、ほとんど歌だけでその気分を操り、管理することができる。

 この下りを読んだ時、即座にアーシュラ・k・ルグィンの『ゲド戦記』を思い出した。ルグィンはアメリカの先住民族について詳しい。父親が人類学者だったからだ。『ゲド戦記』に出てくる「魔法」はほとんどこのラクダを操る方法そのものだ。『ハリーポッター』に出てくるような派手な魔法はほとんど登場しない。こうした魔法めいたことが現実に今も存在していることに驚くし、人間の可能性の大きさにわくわくする。そしてそういう能力を重視しない現代文明の薄さを感じる。
 本書にはこういうわくわくするような能力が、ある民族には当たり前のこととして語られていることが次々と紹介されている。筆者が私たちと同じように驚愕し、困惑し、感嘆するのに引き込まれていく。筆者は書斎の人ではなく、冒険者だ。高度に知的な内容の書物なのに、まるでファンタジーランドを冒険しているような気分にさせてくれるのはそのためだと思う。しかし筆者はノスタルジックな気持ちでこのような「冒険」をしているのではない。亡びつつある言語を何とか救う手助けをしたいという使命感を持って行っているのだ。最終章「言語を救うために」では、危機に瀕した言語を救うための現在進行形の様々な実践を紹介している。まだ間に合う。でももうあまり時間はない。それが筆者を動かしている。