鍵のかかった部屋

鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

 現代アメリカ作家の小説を読むことは滅多にないので、新鮮な体験でした。テンポのいいストーリー展開で、謎解き要素もありページが次々と進む感じです。この辺のスピード感は村上春樹を思わせます。やはり村上春樹は日本の作家というよりアメリカの作家なのかもしれません。
 かつての幼なじみファンショーが美しい妻と未発表の膨大な詩や小説の原稿を残して忽然と消えてしまう。「僕」はファンショーが残した原稿を出版し、ファンショーの妻と結婚しファンショーの息子を自分の息子として育てる。十分すぎる印税と円満な家庭を手に入れた「僕」だが、ファンショーの自伝を書く試みをすることになってから、歯車が狂い始める。ファンショーの足跡を追う内にファンショーとは誰なのか、「僕」は誰なのか分からなくなり、パリで生と死の狭間を漂う。かろうじて生き残った「僕」はファンショーから来た手紙にしたがってボストンまで彼に会いに行くが、壁ごしに言葉を交わしただけだった。ファンショーから読んで欲しいと託されたノートは「僕」に解読できず、「僕」はノートを破り捨ててしまう。
 さっと一読しただけではこの作品の面白さは分からないかもしれません。でもゆっくりと考え、いくつかの箇所を読み直してみるとかなり計算された作品であるし、いくつもの隠されたメッセージを聞くことができます。自分のという存在が他者の承認を得なければ存在することはできないことはテーマの一つだと思います。ファンショーはその他者から承認されて成立する自分を拒絶しているように見えます。「僕」と再会したファンショーは「ファンショー」という呼ばれることを激しく嫌悪します。「僕」から「ファンショー」と呼ばれることで、「ファンショー」として認められてしまうからです。その場面と重ねられているのは、パリで「僕」が見知らぬ男を「ファンショー」と呼びかけ、「ファンショー」として扱おうとする場面があります。ここで「僕」はその男にタックルをかまして逆にめった打ちにされてしまうのですが、この場面とそっくりのことを当のファンショーが自分とクィン(ファンショーの妻が雇った私立探偵)のこととして語っていることです。パリで「僕」は何者なのかわからなくなっていますが、まるでファンショーになったように振る舞います。読書もだんだん「僕」とファンショーの区別が曖昧になっていくようです。きっかけはファンショーが長期滞在していた南フランスの別荘に「僕」が行った後からです。「僕」は自分が別の人間になってしまい、それを「僕」が外から眺めているような幻想にとらわれます。
 思うにファンショーとは一つの人格というより一つの状態のようなものなのかもしれません。ここで私は村上春樹の『羊をめぐる冒険』を思い出します。羊に憑かれた人間は特別な力を得、大事業を成し遂げたり、天才的な発見をしたりする。けれども羊が抜けてしまうとその人は超人的な力を失ってしまう。この作品では鼠と呼ばれる男が羊を体内に取り込んだまま死を遂げることで決着をつける。鼠の友人は山奥の別荘で姿の見えないすでに死んでしまった鼠と会話し事の真相を知る。ファンショーもファンショーであることをやめるためには死ぬしかないと知っていたのかもしれない。村上春樹ポール・オースターの比較研究をしたら面白いかもしれない。