陰翳礼讃

陰翳礼讃 (中公文庫)

陰翳礼讃 (中公文庫)

 日本の美しさは陰翳によって引き立てられているというお話。家の作りから、お椀の塗り、掛け軸、障子など様々な陰翳の醸し出す雰囲気が昔を懐かしむ口調で語られます。トイレが離れにあって、薄暗い中で外の景色を眺めながら用を足す良さが結構長文で書かれているのが面白い。白い陶器で作られた便器に明るい照明のトイレはかえって身体から出るものを不浄なものと強調するものだというのはなるほどと思う。風呂も本当は木で作りたいが、しかたなく床だけタイル張りにすると、周りの木がだんだん黒ずんで味が出てくるのにタイルだけはぴかぴかなのはいかにも不調和だと嘆いている。もし日本が西洋の影響を受けずに独自に発展していけば、日本に調和した便利なものが生まれてきたのではないかと谷崎が言うのは同感だ。西洋は西洋に合う形で発展したから西洋の生活習慣に合った便利さを享受しているが、日本はどうしても不調和になる。日本では銀でも西洋のようにぴかぴかに磨いたりはせず、黒ずんで味が出てくるのを愛する。そうした陰がのあるものの姿は薄暗い日本家屋に調和している。蒔絵や金屏風の色合いも電灯の下で見るとけばけばしく派手で下品で、当時の日本の薄明かりの中でその美しさは引き立つ。見えるか見えないかの淡いにぼんやりと浮かび上がる美しさ。女性が歯にお歯黒をつけ、地味な着物を着ていると、薄暗い日本の家の中では顔だけが白く浮き出て見える。女性は顔だけで存在していると谷崎はいう。谷崎は幼い頃を回想して母の手と顔は覚えているが胴体の記憶はないという。能の美しさは薄暗がりの中で化粧もしない露出した肌が、色合いの濃い衣装に映えるからだという。歌舞伎などは濃い化粧をしてしかも電灯の下で演じられるから美しさが半減しているという。昔の歌舞伎はそうでなかったはずだとも言っている。
 日本ではどうして陰翳が尊ばれるのかを日本人の肌の色に帰しているのは面白い。西洋人の肌は白い。西洋にも近代以前薄暗い時代もあっただろうに、日本のように陰翳の文化は発達しなかった。
 最後は日本には無駄に電灯が多すぎるという話が続く。寺に行っても明かりで彩られていて(今ならライトアップというところだ)、行くのをやめてしまった話などが書かれている。道にも信号の明かりが点って進めだの止まれだの明滅しているのは、老人には緊張する。西洋化していくのに老人はついていけないがこれも時代の流れだろうと諦めた口調で締めくくっている。
 この文を読んでいると昭和初期に書かれたとは思えない新しさがある。特に後半の若干老人の愚痴めいた部分などはそのまま現代文明批判として通用する。「陰翳礼讃」も3・11以来の節電の文脈でよく引用されていたので読んだのである。谷崎の文章は美しい。こういう美しさは生活から生まれてくるものだ。村上春樹が書いていたが、本物の芸術は芸術のことだけしか考えなくていい、奴隷制がなければ成り立たない、夜中の2時に冷蔵庫を漁る人間にはそういう文章しか書けないと確か『風の歌を聴け』(デビュー作だ)で書いていたが、どういう環境で生きてきたかはどういう文章を書くかに避けがたい影響を与えることだろう。今の日本でこういう美しい文章が書ける作家はもう生まれてこないのかもしれない。