原作の一つ

風立ちぬ

風立ちぬ

 宮崎駿の映画『風立ちぬ』を観た勢いで、堀辰雄の『風立ちぬ』を読む。映画『風立ちぬ』は零戦を作った堀越二郎という技術者が主人公のお話ですが、妻が結核で亡くなってしまうエピソードのところに、堀辰雄の『風立ちぬ』の話が投影されています。
 さて、『風立ちぬ』ですが、結核になってしまった節子が八ヶ岳サナトリウムで療養生活を送ります。語り手は夫である「私」。入院した時から相当に病状は悪い予感が読者にも感じられますが、二人の静かな生活は淡々と過ぎていきます。「かういふ山のサナトリウムの生活などは、普通の人々がもう行き止まりだと信じてゐるところから始まってゐるやうな、特殊な人間性をおのづから帯びてくるものだ。」そういう特殊な生活のなかで、二人だけで停まってしまったような時間の中で幸福を感じていく。その様子が丁寧に描かれています。節子の最期は描かれません。「死のかげの谷」という後日談のような文章が続いています。題名から分かるように、キリスト教のことが少し出てきます。「私」が三年半ぶりに(節子が亡くなってから?)やってきた村で静かに独りで生活する様子が描かれます。すぐそばに節子の気配を感じながら「私」は寂しい、けれど幸福でも不幸でもない自分を感じます。途中でさびれた教会で神父と会ってミサに預かる場面が出てきますが、キリスト教が救いになるわけではありません。最後は節子の愛を、見返りを求めない愛を感じて、風や枝や葉や山々に親しみのようなものを感じて静かに生きていく様子が描かれて終わります。
 だいぶ前にトーマス・マンの『魔の山』を読みました。『魔の山』もやはりサナトリウムの話ですが、死を前にした様々な経歴を持った個性的な患者たちが持論を展開するセリフばかりの小説で読むのに難儀をしました。最後は第一次世界大戦に若者が参戦していくところで終わります(たしかそうだ)。そういう戦争前のきな臭い情勢についてやたらに詳しく書いていた気がします。ちなみに『魔の山』は村上春樹の『ノルウェイの森』で主人公が真剣に読んでいた本です。それで読もうと思ったのでした。