アースダイバーの視点を

大阪アースダイバー

大阪アースダイバー

 目の前に広がる大地の歴史的・社会学的な地層に深く潜り、現在目の前にある事柄を再解釈していく、それがアースダイバーの仕事だと思います。思想家・人類学者である中沢新一が大阪の街をアースダイブして見た世界を読者に提供してくれます。
 かつて大阪中心部は現在上町台地と言われる部分と生駒山付近を除けば海の底でした。その海に淀川から運ばれてきた土砂が堆積して現在の大阪が徐々にできあがってきます。筆者は大阪という地は、東西に走るデュオニュソス軸と南北に貫くアポロン軸でできているといいます。デュオニュソス軸は霊山生駒山から発する死と生の生々しい混沌としたエネルギーであり、アポロン軸は王権の力である秩序と権力のエネルギーです。その交差する点に四天王寺が建っています(かつて四天王寺は玉造の辺りにあったらしい)。この四天王寺物部守屋の霊を鎮めるために建立されたそうです。物部氏は王権をもしのぐ力を持つ古い豪族で、デュオニュソス的な力を持つ一族だったようです。それをアポロンである王権が征伐し、そこに四天王寺ができたということです。この四天王寺の力は台地の上から千日前や西成の辺りまで覆い、霊力の網を現在に至るまで投げかけているといいます。この地域の本書の解説は白眉で、要約することができないくらいすべてが面白いです。死と笑いが密接な関係があり、笑いの発祥の地は墓地・刑場などであるというのは本当に面白いです。千日前は刑場であり、処刑が見せ物のようになっていたそうです。笑いの芸能は古代より、生者と死者が同じ場にいるところで演じられるものだったそうです。笑いの力により、死者を封印し悪さをしたりしないようにします。また、死者の場である墓地に現在はラブホテルが集中して建っていることも、「土と墓場とラブホテル」の章で死と性愛の関係として語っています。大坂夏の陣以後、為政者となった徳川氏は大量の建設を行い、大量の瓦が必要になった。粘土質の土が出る上町台地が削られ、そこに現在は人形の問屋街の松屋町が広がっている。瓦の需要がなくなったあと、土の人形が作られるようになった。人形は人でないモノなのにそこに魂が入っているかのように感じられる。そうした死と生の境目に位置するのが人形である。この崖地はもともと墓場なのである。死と生の境目にある墓地から採取された土で作られた人形。筆者はここにアースダイバー的符合を読み取る。松屋町から南に下ると四天王寺に向けて寺町と呼ばれる地帯があり、墓地で、そこにラブホテルが林立している。生ある人をモノに変えてしまう土の力、筆者は恋→性愛は人をモノとしてしまうという。近松門左衛門の恋の道行がそれを表しているという。恋をすることが死に直結する道行。そこで激しい性愛に二人は身を投げる。そこには死=モノへの変化があるという深い考察です。墓地は死者があの世に「行く」ところホテルも「イク」ところというのは単なる下品なダジャレとは思えません。性的高揚は一種の死を表すとも言えるわけで、言葉というのは期せずして真実を言い当てるものです。補足的に書かれている、「ラブホテルとディズニーランドの深層」も面白いです。ラブホテルの現在の主流は「ディズニーランド意匠」だそうです。筆者によれば、ディズニーランド意匠の中心をなしている中央ヨーロッパ中世のお城というイメージには「墓場とラブホテル」とつながるものがあるというのです。つまり白雪姫やシンデレラの物語は実は死の世界の城に迎えられる話だといいます。白雪姫を見守るドワーフは大地の精霊であり死の世界の住人です。シンデレラ(灰かぶり)では、古くからカマドは死への入口を示しており、年中灰まみれのシンデレラは生と死の世界を行ったり来たりできる能力を持ち、山の上の死の城へ迎えられます。ディズニーランドは生身の肉体に縛られない自由な空間であり、老いも死もない絶対静止の世界である。そうしたピーターパン的世界は、墓地とよく似ていると指摘しています。とても説得力があります。
 大阪の近世の資本主義の発達となにわの成り立ちについての考察も興味深いです。もともと堅い大地ではなく海の上に漂っていたところからできあがったなにわの地では、無縁の原理が働いている。地面にへばりついている農民は地縁・血縁で固められているため、貨幣経済は発達しない。貨幣経済とは無縁の経済である。金はすべての縁を切ってしまう。そこに超縁としての「信用」を導入することで、なにわの資本主義は発達してきたという。口約束が絶対守られるという商人同士の連帯、そこに本当の市民社会があったと筆者は言います。そういう社会を恐れた織田信長豊臣秀吉は徹底的にそれを潰してしまった。
 渡辺村と被差別部落・皮革業者の考察、鶴橋のコリア街、だんじりと海洋民族の関係、どれもこれもわくわくするほど面白く、大阪のしかも上町台地の端に住んでいる身としてはすぐにでもこの本を片手にその辺を散歩したくなります。
 アースダイバーの目を持ってすればそこにあるものはすべてあるべくしてそこにあり、発生すべくして発生しているということになります。人間のどこかにそういう古代の記憶が埋め込まれているのか、それとも大地の構造がその上でうごめく人間をそうさせているのか、あるいは大地の精霊の力によって人間は予定調和的に動かされているだけのかとさえ思ってしまいます。
 本書は私になぜか村上春樹を連想させます。村上春樹がやはり自分の中を深く深く掘り下げて、アースダイバー的な目で様々な地層を読み取り、それを物語の形にして紡いでいるからなのでしょうか。一見別々のものが、分かちがたく結びついていたりする、そういう目をもたない人にとっては意味不明、牽強付会、奇をてらっているなどと批判されるかもしれませんが、村上春樹自身が言っているように、そこではそれが自然なのであり、ただ起きていることを書いているだけなのだと思います。『海辺のカフカ』でナカタさんがジョニーウォーカーを殺すが、カフカ君の手にべっとりと血のりが付いているとか、『1Q84』で天吾がドータの中に射精したら、青豆が妊娠してしまうとか、『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』でつくるが夢の中でシロと性交していることが、シロがレイプされたことにつながってしまうとか、そうした一見荒唐無稽なことが、他の見方(アースダイバー的な)をすれば実は当然そうなるべきこととして起こっているということがありありとわかるわけです。この『大阪アースダイバー』を読んで、村上春樹の読解が私なりにかなり深まった気がするのは、これも必然か?