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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 今回の作品は村上春樹にしては短い、中編小説とでも言うべき長さのものです。『1Q84』や『海辺のカフカ』でも使われていた異次元との何らかの人、物を介してのつながりが今回も終盤で出てきます。例によって、なくしものを探すスタイルは『羊をめぐる冒険』以来のもので、読者をぐいぐいと引っ張っていきます。
 村上春樹はいつも新しい作品で新しいこともチャレンジしているそうですが、どこがというのは私にはわかりませんでした。印象として挙げると倫理的な正しさと罪の問題についてかなりはっきりとしたメッセージが読み取れることです。根源的な闇や、暴力の問題は特に最近の村上作品には頻繁に出てきますが、主人公はどちらかというとイノセントな立場にあった気がします。むしろそうしたものに巻き込まれていく受動的な存在として。しかし今回提示されているのは、表面的にはイノセントな主人公、受難者ですらある主人公がそうあろうとすればするほど、加害者でもありうるということではないかと思っています。
 ある次元においては受動的な無垢なものが、ある次元では能動的な暴力でもありうるという話。これは恐ろしいことですが、現実にもあるのだろうと思います。自分のことは自分で分かっていると誰しも多かれ少なかれ思っていると思うのですが、実はそうではない。主人公の多崎つくるは、村上作品に出てくる多くの主人公とよく似ている、クールでタフでもの静かな人物です。日々の生活を単調なリズムで刻むことを好み、運動によって心身の安定を保っているバランス感覚のすぐれた人物。都市部に住み、誰とも群れず、ジャンクフードよりは自炊の小食を実践している。真面目で仕事熱心で女性とつき合うこともできるが、独身である。ただ、この作品ではそうした特性が従来作品よりは強固ではなく、どこか弱さを感じさせます。そうした自分を迷いながら受け入れているような感じもあります。もっと若い頃の作品ではプロテストとしてそうした生き方を選んでいるような感じがあったけれど、今回の作品ではそういう生き方しか選べないという感じがします。
 この作品のテーマの一つに「選択」があると思います。しかもきちんと時間をかけて吟味して選んだというよりは、そうせざるを得なかったという選択。時間が経ってから振り返ってみたら他の選択肢があり得たかも知れないという選択です。高校時代に親密であった友人達はそれぞれ今はバラバラにそれぞれの場所で懸命に生きている。それぞれに傷や矛盾やらを抱えて生きているけれども、それはそういう風にしか生きられなかったということがそれぞれの語りからよくわかります。
 村上作品を読むといつも感じるのは倫理的であるということだけれど、今回は特にそれを強く感じます。罪がそこにある、でもそれは権力によって裁かれるような犯罪ではない。だから関係がないと言えばいうことができます。でもそういう風に自分をごまかしたりはしない。かといって無闇に悲観的になったり、悲愴な決意をするのでもなく淡々とそれを受け入れる。そこに実は治癒があります。罪は隠されれば隠されるほど人を蝕んでいきます。衆目にさらして罰を受けさせるというようなことではなく(実際そういう種類の犯罪ではないのだが)、自分に対してうそ偽りを言わないということです。それが倫理的であるということです。
 最後に、例によって例のごとく、不思議な女性が現れて主人公を単調な日々、完結しているように見える日々から連れ出してくれます。物語はそのような形で日常に忍び入って主人公を起動させるのでしょう。いつものハルキに安心しつつ、またまた異界に連れて行かれる不安と、日常に戻っていかなければならない痛みを感じさせてもらいました。