生きる意味はあるか

人生に意味はあるか (講談社現代新書)

人生に意味はあるか (講談社現代新書)

 本書はフランクルの研究者であり、臨床心理士でもある筆者が「生きる意味」について書いた一般向け読み物です。筆者の諸富祥彦は「100 de 名著」というEテレの番組で『夜と霧』の指南役を務めていました。
 本書はユニークな作りになっています。パート?では筆者の臨床体験の具体例も織り交ぜながら、現代人の生きる意味の喪失について語るとともに、大学で実際に行ったワークショップを再現しています。読者も参加できるようにと、書き込むスペースまでついています。
・どんなときに人生の意味について考えたことがあるか。
・「人生に意味はない」立場のどの言葉に、最も心が動いたか。それはなぜか。
・「人生に意味はある」立場のどの言葉に、最も心が動いたか。それはなぜか。
・人生に意味はあるか、ないか。あるいはこの問題をどう考えるか。それはなぜか。
 これらの問いについてそれぞれカードに書いてからディスカッションするわけです。筆者は実際に学生から出た意見を紹介しながら解説を加えています。
 パート?では、「これが答えだ」と題して何人かの人を紹介していますが、この人物の選択がこういう本にありがちな方向性とは少しずれているのが面白いです。わざと「これが答えだ」などと小見出しに書いてしまうのもそうですが、一般読者が食い付きやすいように書いているなと思わされます。大学の先生の書いた本というのは一般読者レベルから乖離しやすいものですが、さすがに臨床体験があるためか、わかりやすく丁寧です。きっと学生にも人気があるんだろうなと想像できます。
・宗教の答え:五木寛之「人生の目的を見つけるのが人生の目的」トルストイの答え「庶民の福音に帰れ」ゲーテの答え「欲張って、命を燃やせ」
・哲学の答え:トマス・ネーゲルの答え「すべては、一瞬の出来事」渋谷裕美の答え「人は根拠なく生まれ、意義なく死んでいく」宮台真司の答え「生きることに意味もクソもない」ニーチェの答え「一切はただ永遠に、意味もなく回り続けている」
スピリチュアリティの答え:飯田史彦の答え「自分で計画した問題集を解くこと」キューブラ・ロスの答え「与えられた宿題をすませたら、からだをぬぎすててもいい」『チベット死者の書」の答え「死の瞬間、光に向かって進め」玄侑宗久の答え「根源的な意味の連続体に帰ると信じる」上田紀行の答え「生きる意味の不況から脱出せよ」江原啓之の答え「人生の目的はたましいの成長」『神との対話』の答え「自分が何者であるかを思い出すため」
 以上は目次を順に書き出しただけですが、短く要約されているのでわかりやすいかと思います。この中から面白いと思うものを選んで読んでもそれなりに発見はありそうです。筆者のようないわゆる知的エリートが、江原啓之や『神との対話』などを挙げてくるところが実に面白いところで、筆者の柔軟な思考を感じさせます。最も、「お手軽スピリチュアリティ」と「ほんものスピリチュアリティ」と区別して、これらをあやしげなものと紹介しつつ、いいことを言っているという立場を取っています。これは初めて知ったことですが、スピリチュアリティという言葉はWHOにおける「健康」の定義の一次元をなすものとして使われ始めているかなり公的な言葉だそうです。筆者も指摘していますが、日本では「精神世界」「サイキック」「霊能」「霊感」「ホリスティック」(部分ではなく全体を包括的に捉える態度や考え方。心と身体の調和)「トランスパーソナル」(個人の心理を超えた領域を尊び、宗教的・霊的な次元をも含めた心の成長を目指すこと)「インテグラル」(数学用語では積分のこと。総合的・全体などの意味。たぶんトランスパーソナルと扱う分野は変わらないようだ)と玉石混交の状態ということです。よくわからないままに言葉だけ流行って一瞬で消費されていくのは日本の特徴でしょうか。その一瞬の流行に載せられて人生を狂わされてしまう人もいることを思えば、笑い事ではない気もします。そういう意味でも何が「ほんもの」で何が「にせもの」なのかを見分ける力を養うことは現代人の必須教養です。まあそれを見極めるだけで人生の時間を使い果たしてしまいそうですが。
 章を変えていよいよフランクルの登場です。フランクルの答えは、「人生の答えは与えられている」ということです。自分の人生に答えはあるのか?と問うのではなく、自分は人生から何を期待されているのか?と問うのが正しいのだと問いの方向を180度転換することをフランクルは勧めています。したがって、そこには万人に共通するような抽象的な次元での「答え」はありません。個々人がその時その場で答えを出していくことが人生の意味なのです。そのように問いの前にまっすぐ立って答えを出していった時、過去は永遠の座標軸に刻まれるとフランクルは言っています。未来はわからない。現在は過ぎゆく。しかし過去はそこにあります。いいかげんに流れた時間ではなく、問いの前に立ち、自らの責任で生きた過去は、それが苦悩に満ちたものであっても人生の意味として輝き続けるとフランクルは考えています。この考えは私たちを確かに力づける言葉であり、常に問いにさらされていることを厳しさを要求する考えだと思います。
 最後に「私の答え」として、筆者自身の立場が語られます。筆者の答えは「いのちが、私している」です。筆者はトランスパーソナル学会会長をしているだけあって、スピリィチュアルの立場を取っています。筆者自身のスピリチュアル体験も含めて語られています。中学生から7年間「生きる意味」に取りつかれた筆者は突き詰めて考えたあげくに、もういいや、死んでしまおうという一種のあきらめをした瞬間にスピリチュアル体験をしたと言います。「自我の破れ」と筆者は表現していますが、悟りのようなものでしょう。死によって分断されているのではなく、宇宙に充満しているエネルギーが「わたし」という形になって一時期存在しているに過ぎない。死によって違う世界に行くというより、元の形に戻るだけなのだということらしいです。そのなにやら名づけがたいもの、筆者は「いのち」と言っています、それが「私している」状態の期間に、与えられた使命がある。それがフランクルの言う「問い」と同じものだと思います。人生から期待されているのだということです。
 死について語らなかった孔子、すべては無常だと知ったブッダ無為自然を説いた老子……たぶん、それぞれにスピリチュアル体験をどこかでしているのかもしれません。彼らの思想には重なるところがいくつもあります。この「いのちが、私している」の解説から、むしろ東洋の伝統的な思想を思い起こしました。こういうことに関しては、過去の発見を積み上げて知識化していくことではなく、その都度自分が体験しないとわからないことなのです。2000年前に誰かがわかったことと同じことを私たちがわかることができないということもありますし、年齢を重ねれば自然とわかるという性質のものでもないでしょう。やはりある種の修行が必要でしょう。筆者は最後に、「ほんものの人生」「ほんとうの生き方」を追及する、心理学的な「自己成長道場」「自己啓発塾」みたいな私塾を作りたいと言っていますが、よくわかります。実際、孔子ブッダも(老子は飄然と去ってしまうのですが)あるいはギリシャの哲学者たちも、弟子と師による対話を通じて学びを深めていったのですし、そういう形でしかわからないことはあるのです。学校というシステムで学ぶようになったのは人類の学びの歴史から言えばつい最近の出来事です。
 インターネット全盛のこの時代、疑問があればキーワードを打ち込めば「答え」が出てきます。大勢の智恵を集積すれば解けない謎はない?本当でしょうか。「いかに生きるべきか」「人生に意味はあるか」というような問いに関して、このような大勢の智恵は無力です。もしそこで「このように生きるべきです」などと言われても私は信じないでしょう。答えは自分の内側を見つめることでしか導き出せないからです。