人生にイエスと言う。

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

 本書は『夜と霧』の作者ヴィクトル・フランクルが、ナチス強制収容所から解放された翌年にウィーンの市民大学で行った三つの連続講演です。市民の向けの講演であることから、平易な語り口でわかりやすいものです。しかしその内容は深く、生きる意味について考えるすべての人にとっての指針となりえると思います。
1.生きる意味と価値
 「すべては、ひとりひとりの人間にかかっているということです。おそらく、同志は少ないでしょう。しかしそれは、重要なことではないのです。そしてつぎに、すべては、創造性を発揮し、言葉だけではなく行動によって、生きる意味をそれぞれ自分の存在において実現するかどうかにかかっているということです。」本書にあるこの言葉はフランクルの思想を要約していると言ってもいいと思います。収容所のような極限状態にあっても、自分自身が飢え死にしそうなのに人にパンを譲る者や、オペラのアリアを歌って人々を勇気づけたりした人がいたと『夜と霧』にありました。与えられた状況の中で、どういう態度を取るかはその人に与えられた最後の自由なのです。フランクルは生きることは義務であるという文脈でインドの詩人タゴールの詩を引用しています。
 私は眠り夢見る、
 生きることがよろこびだったらと。
 私は目覚め気づく、生きることは義務だと。
 私は働く−すると、ごらん、
 義務はよろこびだった。
 フランクルと言えば、この言葉というくらいいろいろなところで引用されている言葉が語られています。「私は人生にまだなにを期待できるか」という問いを180度転換し、「人生は私になにを期待しているか」と問うのだと。生きる意味を問うことは間違っています。人生が私たちに絶えず問いかけているのです。そこで、フランクルは次のように考えます。一般化された「生きる意味」などないと。それぞれの人が「今、ここ」で問いの前に立たされており、その人がその時々にどう生きるかが問われている。それはその人固有のもので、一般化することはできません。チェスの世界チャンピオンに、どういう手が一番いい手だとお考えでしょうか、と聞くくらいとんちんかんな問いだとフランクルは言っています。この個別性、具体性、代理不可能性がそれぞれの個人にそれぞれ生きる意味(使命)を発生させているのです。
2.病を超えて
 総論的に生きる意味を考察したフランクルは第2回で、病と苦悩の問題を取り上げます。フランクルは苦悩さえも生きる意味だと言っています。収容所の中では動物のような苦痛や危険(食べる・寝る・凍える・殴られる)ではなく、人間らしい葛藤、人間らしい苦悩に恋い焦がれたそうです。
 どんなに苦しい事実であってもその事実に対してどんな態度をとるか、どう引き受けるかに生きる意味を見出すことができるというのです。
 人間の価値の問題で、不治の患者は人間社会のために非生産的だという意見に対する反論として、愛されている人間は、役に立たなくてもかけがえがないとフランクルは言います。「家にいて、ほとんど歩けず、窓際の肘掛け椅子に座って、うつらうつらしているおばあさんは、たいへん非生産的な生活を送っています。それでもやっぱり、子どもや孫の愛情に囲まれ包まれています。このような愛情に包まれてこそ、うちのおばあちゃんなのです。この代理不可能性がかけがえのない存在なのです。
3.人生にイエスと言う
 フランクル強制収容所の中で、ここから出たらこの体験を講演会などで語るのだと心に決めて周囲を観察し、「強制収容所の心理学」という題の原稿を頭の中で作ったそうです。
 フランクルは多くの囚人が典型的な囚人に没落していくのを目にしました。そういう中で人間らしさを失わない人たち、周囲の環境に慣らされない人もいました。
 もう死が近くまで来ている人でも、死を自分のものにするなら、その死は意味ある死となるとフランクルは言います。押しつけられた死と考えるのではなく、引き受けるということでしょうか。フランクルの思想は徹底して私にすべてがかかっているという思想です。そこで次のようなことも言っています。
 「まさにここオーストリアでいつもいつも体験することです……『ドイツ人』を非難するのです。『ドイツ野郎を放免するな』というスローガンを唱えるのです。そして、そのとき気づかないのですが、そんなふうに非難することによって、一生懸命に否定しようとしていることを証明することになっているのです。つまり、あいかわらず、ひとりひとりの人間を個人の罪で判定するのではなく、国民全体に対して共同の一括判定を下すような世界観の地平に立っているということです。
 フランクルがこの講演をしたのは1946年です。強制収容所で死ぬほどの体験をし、多くの友人知人家族を殺されたにも関わらず、このように言えるフランクルは相当に強い人です。収容所で生き残るだけのことはあります。罪は個人にある。それを所属する国家にしてしまうのは間違っています。ある国の人間だからという理由で非難することと、国家の命令で行ったことだから仕方がないということは同じ意味で無責任です。たとえ国家に命令されても間違っていることはしなかった人も確かにいたし、そのために国家に殺されることになったとしても、そういう態度をとった人は自由だったと言えるでしょう。人生にイエスと言える人でしょう。
 どのような状況であっても自分の態度次第なのだというのは勇気を与えてくれる考え方ですが、厳しい考えでもあります。『孟子』の「千万人といえども我ゆかん」を思い起こします。