動物に魂はあるのか

 始めから終わりまで面白い本というものもあるし、面白くないものもある。始め面白いと思って読んでも裏切られることもある。本書は面白くなるためには我慢して後半まで読まなければならない本だと思う。といってもそれは私が基本的な哲学知識が不足しているからに他ならない。哲学専門の方ならば、始めから面白いはずだ。
 筆者はアリストテレスから語り起こし、現代に至るまでの「動物」にまつわる思想史を概観する。筆者も断っている通り、一人の哲学者の思想を概観するだけで分厚い本一冊でも済まないのに、思想史を新書一冊で語るのは無理である。したがってその思想の一部を紹介しながら進むのだが、このあたりの記述が知識量が追いついていない私には苦しいものがある。それでも一つ一つの紹介は面白く、今後読んでみたいと思う本も次々と出てくる。
 動物に霊魂があるのかどうかを考える上で大きな画期になるのは、デカルトの「動物機械論」である。動物は感覚を持っているような動きをするが、それはそういう風に作られているだけで、実際には何も感じてはないという考え方だ。このデカルトの思想はその弟子筋になって極端化した。筆者はマルブランシュという哲学者はうれしそうに近寄ってきた雌犬を蹴り飛ばし、鳴きながら走っていくのをみて、「あれは何も感じていないんですよ」と言う場面を紹介している。
 一方で、デカルトの「動物機械論」に対抗する形で「動物霊魂論」が活発に議論される。動物は感じることができるという思想だ。ただ、人間と動物は全く同じように感じるのではなく、動物のそれは一段劣ったものとして扱われている。逆に動物の方が優れているという論も生まれたりするが、全体的には動物機械論を支持する人は少なくなり、この問題に対する議論はフェードアウトしていく。
 本書はあとがきまで入れて248ページだが、「第五章論争のフェード・アウト」の終わりで、176ページ。ここまではかなり忍耐が必要である。面白いのは第六章「現代の〈動物の哲学〉」と終章「〈動物霊魂論〉が浮き彫りにするもの」であるが、ここを面白く読むためにはここまでちゃんと読まないといけない。
 現代の思想の部分で面白いのは、「種差別主義」のところで、ここが終章でも論じられていく。「種差別主義」は簡単に言うと、他の動物よりも人間の方が大切だという考えだ。畜産と動物実験は動物を苛酷な環境において、ただ「肉」になるためだけに特化させてあらゆる他の要素(自由に動き回るなど)を排除した扱いをしたり、人間の心理学や医学の発展に寄与するかもしれないということで、虐待としか言いようのない実験を繰り返したりすることが例として挙げられている。筆者が指摘するのは、このような動物への扱いは、かつての「動物機械論」への回帰ではないかということだ。実験用のマウスなどは「ロボット生物」のようなものと考えられているのではないか。
 動物へのそのような扱いの一方で、コンパニオンアニマル(ペット)への過剰な手厚さと、食用動物への無感覚が取りあげられる。また、人間に優しいことが、動物に冷淡であるという議論が、動物に優しいことは、人間に冷淡であるということも成り立ってしまう世界を指摘している。健康なチンパンジーと重症障害新生児の命の価値を比べるという実験が行われたという話が紹介されている。
 人間と動物の関係を考える上で、誰を人間としてみるかという思考が導かれる。したがって、ある人間を人間として見ないという思考も成り立ち、ナチスユダヤ人虐殺が例として挙げられている。本文より「〈人間と動物〉を論じていたはずのわれわれは、こうして〈人間の中の動物〉の弁別や剥落化という契機に逢着することになった。〈人間圏〉からはじき飛ばされる〈非人間〉または〈亜人〉は、例えば優しい飼い主に労られる〈コンパニオンアニマル〉よりも、はるかに厳しい辛酸を舐めざるをえない。」
 さらに筆者は人間の非人間化と人間の動物化について、クローン人間と臓器移植の問題を挙げている。筆者はフィクションを挙げて説明しているが、未来には起こってもおかしくない話だ。
 この議論の先に筆者は一気に近代思想と動物機械論を結びつけていく。近代啓蒙思想の先に、野蛮人の征服があり、〈土人〉〈外人〉のような同種内異人、さらに知的劣等者、経済的劣等者などが次々と排斥されていく。そうした社会力学の中で「動物機械論」は必然的に産み出されてきた。これはわかりやすい議論です。
 筆者は現代の構造的な「動物機械論」に対抗しうる思想の方向は「動物霊魂論」だとしています。しかし動物霊魂論は動物機械論に比較して微妙で繊細な議論であるために、動物機械論の乱暴で激烈な議論よりも退屈に見えると指摘しています。動物機械論は極論であるゆえに活発な議論を呼び起こし、長い時間をかけてそのきわどさとあざとさが衆目の一致するところとなり、常識的な見解に収斂していき、議論そのものが消失していったとしています。ここで筆者は「常識」の定義をします。常識には独創的な思想家に比べると凡庸で切れ味が悪く、特筆性に欠けるが、或時代の人間集団を深く長く規定しているとし、両方に配慮が必要と説く。
 筆者はその上で、動物は感じる存在である(機械ではない)ということが常識になったことで、動物の処遇は改善したかという問いを立てている。ここで再び上記の食用動物の話が繰り返され、結論的に(本文より)「われわれは皆、多少とも〈種差別主義〉をどこかで信奉している。人間は最終的には動物より人間の方が大切だと思っている。人間に直接に敵対するものはもちろん、直接には敵対せずにただ地球上に併存しているだけの生物たちでも、できるかぎり制圧し、利用し、搾取しようとする。そしてその利用には虐待や酷使の成分がしばしば混入している」と展開します。ではこのような絶望的な状況の中で、我々はどうすべきなのか、筆者は普通の人間として命に対する普通の直感を大切にして〈現代の動物霊魂論者〉として生きよと言う。筆者の結論は、人間が複雑で優れた魂を持っているのは、他の生物にもできる限り気遣いができるためだというものです。
 筆者の結論だけを取り出すと、ある意味陳腐にすら響きかねないものですが、これが筆者のいう「常識」なのだと思う。そしてこの常識にたどり着くまでにかなり遠い道を筆者は歩いている。それはどこか、幼い頃に大人から言われた退屈で当たり前すぎる話と似ているかもしれない。その表面的な意味ではなく、その言葉が自分の口から出てこざるを得ない時、その意味の深さに気がつくのである。そしてもの足らない顔をした幼い人にかつて自分が聞いた話を繰り返すことになる。それが常識というものだろう。
 筆者の結論から考えたもう一つのことは、西洋哲学を専門とする筆者がたどり着いた結論が、ある意味東洋的な哲学の文脈では古くからの常識に当たるものだということだ。それはブッダが虫をも殺さないためにはだしで歩いたことや、輪廻転生の思想を思い起こしてもよい。新しいところでは、宮沢賢治。彼は仏教徒ベジタリアンだった。賢治は動物だけでなく、植物にも魂を認めて、「ビジテリアン大祭」という作品でベジタリアンについて書いている。賢治は石などの無生物にさえ交流をしていたようなところがある。西洋哲学が長い年月かかって積み上げてきた思考の先に、東洋的な智恵がたどりついていた境地があるような気がする。しかし東洋哲学は基本的に普遍性を追求するよりは、個人の解脱を求める方向に向かっていると思う。多くの人に分かるように説明し、世界を自分の思っている形に変えていこうという発想は東洋にはあまりない気がする。西洋哲学の普遍性が世界を席巻した後に、道に迷ったようになっている。もはや多くの人が一つの思想を奉じるような時代ではない。個人がどう生きるかが問われるとき、個人の悟りを追及する実践哲学に一日の長があるように思うのは私だけだろうか。