オリガ・モリソヴナの反語法
- 作者: 米原万里
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2005/10/20
- メディア: 文庫
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さて、『オリガ・モリソヴナの反語法』の中身に全然触れていないことに気がつきました。この作品はとてもよくできたミステリーです。主人公が少女時代に会う、謎に満ちたバレー教師オリガ・モリソヴナの生涯について、中年女となった主人公が追っていきます。その中で、旧ソ連時代の強制収容所の実態や、民族差別の実態が明らかにされていきます。巻末の資料は膨大です。これらの資料を読み込めばあるいは事実が分かるのかもしれません。でもこの作品を読むと、小説は事実ではなくフィクションで真実を語るものだということを改めて感じます。あまりにも悲惨な事実はそういう形でしか語ることができないのかもしれません。この作品の優れているところは、そういう悲惨を語りながら湿っぽくなく、笑いが絶えず、それでいて涙が滲んでくるような味があるところです。私が心に残った箇所はラーゲリ(収容所)での生活をラーゲリ帰りの婦人が語る場面です。本も筆記用具の所持も禁止されていたラーゲリでは、記憶に基づく「書物」の朗読が流行ったというのです。長時間労働で疲れ切っていても、睡眠時間を削ってその朗読に耳を傾け、記憶が曖昧なところはみんなで補い、トルストイの『戦争と平和』やメルヴィルの『白鯨』のような大長編を「読んだ」そうです。その上、そんな風に無理をしたのに、肌の艶や輝きが戻ってきたというのです。たしかフランクルの『夜と霧』にもそんな話があったはずです。一日の労働の終わりに疲れ切っているはずなのにオペラを歌う男。それを涙を流して聞く囚人達。みんなひもじくて死にそうなのに、そのオペラを歌った男にスープの具の入ったところをたくさん取らせてやったという話が。人が「生きる」とは何なのか、こういう極限状態でかえってよく分かる気がします。私は十分すぎる食べ物と温かい家を持っていながら、芸術に感動している瞬間の囚人達より「生きている」と言えるのだろうか。芸術が人間にとってどうしても必要であることがわかる。ラーゲリ帰りの婦人は言います「自由の身であった頃、心に刻んだ本が生命力を吹き込んでくれたんですよ」。私も自分に生命力を与えてくれるような本を自分の中に貯めていきたいです。