宗教的経験の諸相

宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)

宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)

 本書は個々の宗教の教義などについて書いている本ではない。宗教的な経験とはどういう種類のものがあり、それは人間のどういう心理作用から生まれ、どのような実際的な効果をもたらすのかを科学的なアプローチで解明しようとした本である。1902年に刊行された本書には、時代背景として科学信仰、宗教の凋落への危機感があるようだ。科学的な体裁をとっているのも、読者としてそうした背景が念頭に置かれているのだと思われる。
 作者のW・ジェイムズは心理学者であり、本書は宗教心理学の草分けに位置づけられる。もともとはイギリスのエディンバラ大学での講義が元になっている。
 本当に多くの体験例が引用され、宗教的経験の諸相が非常に広い分野に渡るものであることを教えてくれる。筆者の立場は「宗教的経験」に主眼が置かれているため、それがどのような現象から引き起こされたものであるかを問わない。極端な話、薬物から引き起こされた異常な心理状態であっても構わない。「神秘主義」に関する論考における多くの実例は、理性を重んじる知識人からは非難されかねないような内容のものもある。筆者は宗教的経験をした人々を様々なカテゴリーに分けて詳細に分析を加えている。なかでも興味深いには、「一度生まれ」と「二度生まれ」に関する部分で、私が本書を読むきっかけとなった『続・悩む力』(姜尚中)にもこの部分が引用されている。二度生まれの人間は、精神的に一度死に、苦難と絶望の淵から甦り、精神的な新生を遂げる。そのことでより一層深い人間理解に至る。姜尚中は、漱石ウェーバーフランクルを二度生まれの人間として考察している。一度生まれの人間は、二度生まれの人間から見るとあまりに楽観的で、罪の苦しみも感じないような人として見えるという。しかしジェイムスは一度生まれにも二度生まれにもそれぞれに宗教的経験があり、その実例も示している。
 ジェイムスの生まれ育ちにより、実例がキリスト教アメリカの新宗教に偏っているのは仕方ないが、ジェイムスの試みとしては、宗教的経験の共通項を見つけ出し、普遍的な部分を抽出することにあるようだ。最終部分はそこに費やされているが正直ちょっとわかりにくい。グローバル化の限界が見え始め、普遍性を追求することをそう無邪気には考えられない現代の私たちからすると、ジェイムスの言っていることは楽観的に感じられる。また、精神・理性の優位にも懐疑的になっている私たちからすると、ジェイムズが闘っている前提が変わっていて、むしろ宗教的経験が何から発していようと、「よい」効果をもたらすものであるなら受け入れようとする傾向は現代の方が強いのではないかと思う。それが非常識だと感じるよりは、そうした人間の理解のできない領域があって、人間の理解している部分よりもずっと広く、実はそちらの方が主で、見えている部分、分かっている部分の方が従なのだというような感覚は現代の日本人にはあまり違和感なく受け入れることができるのではないだろうか。これは日本人だから殊更に感じるのか、3・11を超えてしまった私たちだからなのか、いずれにしても霊・魂の復権は近いと感じる。