原発とヒロシマ

原発とヒロシマ――「原子力平和利用」の真相 (岩波ブックレット)

原発とヒロシマ――「原子力平和利用」の真相 (岩波ブックレット)

 本書は序章「ヒロシマナガサキからフクシマへ」第1章「アイゼンハワーの核政策『戦争』そして『平和』のための原子力利用」第2章「『原子力平和利用』とヒロシマ 宣伝工作のターゲットにされた被爆者たち」終章「歴史からの問いかけに向き合うとき」の4章から成っている。
 アイゼンハワーは広島と長崎の原爆投下を批判した唯一の大統領であり、一時は原子力が国際的に管理され、アメリカの核兵器を廃棄し、国連に引き渡すことを主張した大統領でもあった。しかし同時に核兵器を通常兵器として使用する道を開き、核兵器による脅し外交も使った。朝鮮戦争の停戦交渉が長びいた時に、沖縄の嘉手納基地に核爆弾を搭載した爆撃機B36を20機集結させ、カーチス・ルメイ(第二次大戦中に東京大空襲をはじめ日本の焦土作戦を指揮した爆撃軍司令官。ちなみに戦後、日本の自衛隊を指導した功績で、日本政府より勲章が贈られている)が報道関係者を招いてその様子を見学させた。他にもスエズ運河台湾海峡の金門・馬祖島に使用すると脅したことがある。
 アイゼンハワー核兵器への嫌悪感を消去するため、1953年12月8日「原子力平和利用(Atoms for Peace)」の演説を行った。しかし1954年3月にビキニ環礁での水爆実験が行われ、マーシャル諸島民を汚染し、日本の第五福竜丸の全船員23名が被爆した。世界中がパニックに見舞われ、アメリカは悪の代名詞のような扱いを受けた。
 アメリカは原子力の平和利用の宣伝のために、原爆の被害地である長崎・広島をターゲットにして原子力発電所を売り込むことになる。日本ではアメリカのCIAからの依頼で正力松太郎が中心を担って協力した。正力は日本のプロ野球の父で、読売新聞の経営者であり、日本テレビの社長も務めた。正力はA級戦犯として二年間の獄中生活の後、不起訴となり出獄した経歴を持つ。正力は鳩山一郎内閣時で原子力担当大臣に就任し、中曽根康弘などと結託して日本への原発導入を強力に推し進めた。正力は日本原子力委員会(JAEC)の初代委員長に就任し、科学技術庁長官も務めた。
 アイゼンハワー政権下で原子力の平和利用を謳いつつ、核兵器保有量は増え続けた。アイゼンハワー就任時は1000発あまりだった核兵器は任期終了時には2万2000発になっており、彼の許可した核兵器の製造が1960年まで続き、ケネディ政権時には三万発を超えていた。
 広島のメディア・首長・団体などがアメリカ発、読売新聞を中心とするメディア戦略に乗って、原子力賛成の方向へ誘導されてしまう。
 筆者は最後にドイツでの教育と過去への真摯な向かい方と比較して、日本の建前に終始して本質的な部分に目を向けない姿勢を批判している。3・11以後、日本人は今度こそ向き合わなければならないのだけれど、さてどうだろうか。