漱石の到達

道草 (新潮文庫)

道草 (新潮文庫)

 完成した小説としては最終作品である『道草』。自我の問題と格闘した漱石は、死ぬか、気が違うか、宗教に入るかしかないという三つの方向を示しました。『門』では宗教に救いを求めながら救われない姿を描きました。『行人』の一郎は狂気に赴きます。『こころ』の「先生」は自殺します。『それから』で我執の問題に関する三つのケーススタディの結論と江藤淳は「漱石『心』以後」(『漱石論集』・新潮社)で指摘しています。
 『こころ』までの作品は、テーマがはっきりしていて読みやすい上、知的な面白さに満ちています。教養小説という感じがします。『道草』はそれに比べると淡々としています。漱石の自伝的小説と言われるとおり、かなり漱石の日常が元になっている感じはします。自然な日常が描かれているのです。江藤淳は、こういう文章は誰でも書けそうでいて、そう誰にでも書けるものではなく、「自在の境地」と言っていますが、あまりに上手すぎるとかえって平易なように見えるものなのかもしれません。平凡な読者としては少し退屈な感じがしますが、ところどころ『猫』を思わせるような面白さがあって、『こころ』のような真剣・真面目な張り詰めた感じの作品とは違います。
 出産のシーンは有名ですが、やはりこの作品のクライマックスと言えるでしょう。江藤淳は「我執の最小単位」と言っていますが、見事です。なるほど、そう読むとよくわかります。前作までの思考実験のような小説ではなく、種も仕掛けもないように見えて思想が埋め込まれた小説です。自在の境地とはそういうことなのですね。