悩み方が足りない。

続・悩む力 (悩む力) (集英社新書)

続・悩む力 (悩む力) (集英社新書)

 
姜尚中氏の『悩む力』の続編です。3・11を受けて、現代を支えてきた資本主義社会の「幸福論」が限界に達したことが誰の目にも明らかになった。しかしこの行く末は、「近代」を見つめた漱石ウェーバーなどによってすでに予見されていたことだった。
 本書は姜尚中氏の専門であるマックス・ウェーバーを引用しながら、漱石の苦しみ続けた近代人の自我の問題を扱っている。『行人』の「一郎」が何度も引用されるけれど、私も漱石の自我の問題について考える場合に『行人』は外せないと思う。『行人』は小説作品としての評価は低いけれど、『こころ』で上手に扱っている問題がもっと生のままに出ていて、理解しやすい。
 題名にあるごとく、「悩むこと」の意味を究極まで探った人として、漱石ウェーバー、ジェイムズ、フランクルの四人を挙げています。その悩みは「人間とは何か」ということです。答えが出ない問題と言えばそうなのかもしれないけれど、この問題と生涯にわたって取り組み続けた人たちです。
 ウェーバーはゲームと化した資本主義の発展の先にどのような人間が現れるかということを言っています。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。今の日本のことを言っているようだと著者は指摘します。「精神のない専門人」は原発事故を引き起こし、責任不在の様相を呈していることは多くの人の指摘するところです。
 インターネットの普及した現代を「直接アクセス社会」ととらえ、パブリックスペースの消滅、「大衆」の「市場」に操られた方向付けによる柔らかい全体主義が世界を覆っていると指摘します。そういう世界の中で、個人は「ホンモノ探し」「自分らしさの追求」を強いられている。神経をヘトヘトに疲れさせて、「セラピー本」やマイナス思考をプラス思考に転じさせる自己啓発本などを繰り出して来る。筆者はこれを「新手の幸福論」と呼び、「人の頭をさんざんなぐっておいて、そのあとで痛み止めやしっぷ薬を売る、そんな『悪徳商法』まがいの文化」と呼んでいます。同感です。
 「ホンモノになりたい」「自分らしくありたい」という思いから逃れる道として、筆者は漱石の「則天去私」を挙げています。たしか『行人』の一郎が、何にも考えていないような庶民のぼんやりした姿に尊さを感じると言っている場面があったと思いますが、近代知識人の啓蒙されたがゆえの苦しみが大衆化されて日本全体をプチ知識人として苦しめているのだろうと思います。
 ジェイムスが『宗教的経験の諸相』の中で言っているtwice born(二度生まれ)のできた人、漱石フランクルウェーバーのような人の言葉に耳を傾ける必要性を著者は訴えています。悩みから逃げるのではなく、ひたすら悩んで悩み抜き、その突き抜けたところに新しい価値を見出す、そういう生き方をした人の言葉に聞く。ジェイムズは「健全な心」で普通に一生を終える「一度生まれ」よりも「病める魂」で二度目の生を生き直す「二度生まれ」の人生の方が尊いと言いました。
 この部分を読みながら、何となく思ったこと。今、『祖父小金井良精の記』星新一著を読んでいます。小金井良精は長岡藩士で、幼い頃、会津まで戦火の中を逃げ回った経験を持っている明治人です。独逸留学をした西洋医学の先駆者で、森鴎外の妹を娶っています。彼が大正時代になった頃、東大医学部の学生の学問への姿勢に憤慨する場面が出てきます。小金井良精は漱石とほぼ同時代人です。明治初めあるいは幕末に生まれた人は、価値観の大きな転換にあって、二度生まれせざるを得なかった人が多かったのかも知れません。もちろん留学経験は大きかったでしょう。現代に思いを馳せると、昭和の初めに生まれた人で、戦後の転換期を迎えた人には、やはり二度生まれを経験せざるを得ない人が多かっただろうと思います。そして平成生まれの学力低下を嘆いている。本当に人間は逆説的ですが、苦しみの多い転換期を生きた人たちの思想は強靱だと思います。その人たちが一生懸命築いた安定した時代に生まれた世代は貧弱で、思想の深みが足りない。二度生まれする必要がないからかもしれません。思えば、小さなレベルならば、経済バブルの時代に自己形成・売り手市場の就職をしてしまった世代は、失われた10年に自己形成をして就職氷河期を乗り切った世代に比べると貧弱な気がします。もちろん、これは大雑把な感覚で、個々人のレベルでは二度生まれせざるを得ない人はどの世代にもいたでしょうし、その逆もそうでしょう。
 最後の部分で、著者は「態度」ということを問題にします。「どうするか」ではなく「どのようにするか」が大切であると。「真面目」という価値についても語っています。それらは「愛」と要約されるかもしれません。もっと説明的に言うと「受容」でしょうか。著者はフランクルを引用しつつ、「人生の方から投げかけてくるさまざまな問いに対して私が一つ一つ答えていくこと」が人生であって、人生の意味を探すことではないと言っています。受け入れがたいような苛酷な試練にが「問い」です。それに対して「イエス、自分は受け入れる」と答えること。
 答えることは、応答すること、決断すること、責任を取ることです。responsibility(責任)がrespons(応答)から派生していることを指摘しています。新渡戸稲造が「人格のないところに責任はない」と言ったそうですが、同じことを指しているのでしょう。新渡戸はキリスト教とでしたからその応答には神への応答、神と一対一の関係において、神からの問いかけに他でもない自分が答えていく、それが責任になるのだと。「精神のない専門人、心情のない享楽人」が責任を取れないのは無理もないことです。大津のいじめ事件で、誰も責任を取っていないように見えるのもここに問題の根っこはあると思います。
 本書は箴言的な言葉が並び、様々なことを考えさせてくれる良書ですが、要約するには問題が多岐に渡りすぎて、力が及びませんし、切りがないのでこの辺で辞めておきます。