パウロの伝道旅行

 

旅のパウロ――その経験と運命

旅のパウロ――その経験と運命

 パウロが実際に歩いた行程を「使徒言行録」と手紙類からたどり、実際に行ってみたという、ありそうでなかった本です。
 筆者も言っていますが、聖書を読んでいると、まるですぐ近くの隣町にでも行くように次の訪問先が書いてあったりするのですが、実際には200キロもある道のりだったりするわけです。しかも徒歩で。当時の人たちが陸路でいける距離は一日30キロだそうです。ですから何度も野宿を繰り返すことになります。そういう部分は聖書を読んでいても見えてきません。パウロはいわゆる「回心」経験の前にキリスト教徒(というか、イエス派の人たち)を迫害しますが、パウロのいたタルソスからダマスコスまで500キロあるというのですから驚きです。いくら許せないと思っても、何日にもわたって歩いて迫害しにいくパウロは相当に執念深い性格です。筆者はパウロを熱狂的な性格と評していますが、うなずけるところです。
 パウロバルナバが第一回伝道旅行にでかけた総距離が1200キロ(稚内から鹿児島までの直線距離だとか!)。高低差1000mの高原地帯を歩くというのですから、尋常ではありません。
 さて、本書がパウロの足跡をたどりながら、当地の今昔を歴史を交えて書いてあるだけなら、それだけでも面白いのですが、本書の目的は、パウロの思想に触れることです。筆者はルカの書いた使徒言行録のルカ創作部分をなるべく削りながら、パウロ直筆の手紙と照らし合わせて、パウロがなぜこのルートで、この街に行ったのかということをパウロの政治的な立場や思想を明らかにするために追っていくのです。
 エルサレムにいる使徒たちとユダヤ教から逸脱しかけているパウロとではかなり考え方が違います。特に異邦人伝道においては、ユダヤ教徒になることを前提にして割礼を必要条件とする保守的な立場と、ただイエスに従うことを求めるリベラルな立場とでは意見が対立します。筆者はパウロが何とかしてこの分裂を食い止めようとしていたと考えています。パウロキリスト教としてユダヤ教から独立することを望んではいなかった。それを「献金問題」としてとりあげます。第三回の伝道旅行でパウロ献金エルサレムに自ら持っていくが、それは異邦人伝道の教会がエルサレム教会を重んじている証拠としてでした。しかしエルサレム献金を受けとらなかったと筆者は見ています。パウロは捕まり、皇帝に上訴したパウロはローマへ護送されます。その間、エルサレムのイエス派の信者はパウロを助ける動きをしません。筆者はパウロの死後10年ほどしてキリスト教ユダヤ教から完全に分離独立した時に、パウロの思想が利用されたが、パウロの思想は結局理解されていなかったと考えています。特に「信仰義認」に対しては否定的で、むしろ「義認信仰」と言うべきだと主張しています。ガラテヤ2:15〜21の「ただイエス・キリストへの信仰によって」とあるのは不適切だというのです。原語では「pistis Iesu Christu」で、英語だと「pistis of Jesus Christ」。これは「イエス・キリストの信」と訳すべきで、「我々のイエス・キリストへの信仰」ではなく、これはプロテスタント的・ルター的な解釈であると断じています。キリストが第一義であって、我々は二義的に「追認」するに過ぎない。我々にできるのは「応答(レスポンス)」であって、我々の信仰次第で「義」と認められるか認められないか、救われるか救われないかが決まるわけではないと言います。ルターは、「pistis」(ギリシャ語)・「fides」(ラテン語)をドイツ語訳の時に「Glaube」と訳したが、これは「人間が信仰する」の意味しか持たない。筆者はこれはルターが当時の堕落したカトリック教会と闘うために言い出したことを考えています。「信仰のみ、それ以外はいらない」という主張です。しかしそれが後代には「信仰」が救われるための「条件」に転化し、「信仰がないから救われない」という呪いとなって人間に迫る、しかしそれは間違っていると筆者は言います。
 パウロが経験したいわゆる「回心」はイエスが「抗殺刑」(筆者は美しさがただよう「十字架」という言葉を敢えて避けている。「stauros」は「杭」という意味で、十字架への磔ではない。実際の刑も一本の杭またはT字型の杭へのくくりつけ刑である)によって殺された姿を心眼で見てしまい、パウロの中の「自分」が抗殺柱のイエスに呑み込まれ破裂し死滅してしまったと筆者は考えます。それをパウロは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私において生きている」と表現しています。この心眼で見た経験は、パウロが迫害していたイエスの弟子たちの言葉を何度も聞く内に卒然として心に浮かんだ映像ではないかと推測しています。筆者は「力は弱さにおいて全きものとなる」(コリント 12:9)をパウロの最高の言葉としています。これはパウロ自身の身体の「とげ」や挫折体験を元にしている言葉ですが、究極的には抗殺柱のイエスに行きつきます。
 私はこれを読みながら、パウロが長い旅路を徒歩で移動する時間と苛酷な身体使用がパウロの思想を作ったと思いました。思索の深まりは、むしろ思索から離れた時に起こるものです。いわゆる「寝かせ」の時間が必要です。思索から離れるために「無心」に身体を動かす時間が必要だと思います。歩行と思索の関係は深いと私は思っています。孔子は中国を旅した。ブッダもインドを歩いて托鉢したのではないか。ただ座禅をしていただけではないでしょう。パウロが野宿をして一人疲れきった身体で星空を眺めながら、前の街でした自分の説教を反芻し、質問や反論について検討し、次の街での説教を考えていたのではないでしょうか、あるいは神や、イエス・キリストやについて思いを巡らしていたのではないかと想像します。
 身体を使っていると、どんなに頑張っても一日に決まった距離しか歩けない、そういう限界のある存在としての人間を痛烈に感じさせるものです。どんなに高尚なことを考えようとしても腹が減って仕方がないかもしれないし、足が重くて一歩も歩けないかもしれない。強い日差しにめまいがして、強風に向かってよろよろ歩き、雨に打たれ、体調を崩すこともあったでしょう。でもそういうところからしか本当の思想は生まれないのかもしれません。