彼岸過迄

彼岸過迄 (新潮文庫)

彼岸過迄 (新潮文庫)

 元日から彼岸過ぎまで書くから、「彼岸過迄」という題名にしたと漱石自身が「彼岸過迄について」で書いている。そうとうの自信がないとこんなことは言えない。
 いわゆる「修善寺の大患」後の初連載ということで、なるべくおもしろいものを書かないと済まないと言いながら、小説など自分でもどうなるかわからないし、それで差し支えない、自分らしいものが書きたいだけだなどと言っているところは、何となく漱石らしくて好きだ。漱石がオリジナリティーを重視する人だというのは、息子の伸六さんが、漱石にステッキでめった打ちにされた話で書いている。兄と父と一緒に縁日か何かに行ったとき、射的をすると子どもから言い出したのに、いざ撃つ時になって兄がはにかんで父の後ろに隠れて撃とうとしなかった。では伸六にということになったが、伸六も兄と同じように恥ずかしがって父の後ろに隠れようとした。すると漱石はにわかに激して伸六を持っていたステッキでめった打ちにしたという話である。伸六さんは、漱石がオリジナリティーを重視するあまり、弟が兄のまねをしたことに耐えられなかったのだろうと述懐している。異常な神経だと言ってしまえばそれまでだが、そうでなければ、明治の世の近代小説の夜明けの時代に産まれた漱石がこんなに新しいものを次々と書けるわけがないとも思う。
 さて、彼岸過迄だが、途中までは実にとらえどころのない小説だ。大学を卒業したけれど働き口のない敬太郎の宙ぶらりんの生活が描かれている。田口という実業家から探偵のような役割をさせられたあたりから、ようやく主要な人物が出そろう。もう後半と言ってよいようなところで、須永の長い告白が始まり、どうやらこれが主題の話のように思われてくる。この告白は何となく『こころ』の「先生」の告白を思わせる。しかし須永と千代子の間は不徹底なまま物語は終わってしまう。須永が関西方面に旅行に行くが、私はそこで須永が自決でもしてしまうのだろうかとはらはらしていた(再読と言いながら、もうすっかり忘れているのである)。ところが須永はその旅行中に、自分が変わっていくことを喜んでいるという内容の手紙を松本へ送ってくる。ちょっと肩すかしの気がした。「解説」にも触れてあったが、須永の苦悩の根本を出生の秘密にしてしまったのは問題を突き詰めるのには不適当で、自我の問題に集中していくのは今後の作品においてである。出生の秘密のような特殊事情を持ち出さず、万人の共通の自我からの解放の問題の先に「則天去私」がある。
 千代子に今までの作品にも出てきた、決然と度胸の座る瞬間がある。須永に高木への嫉妬を指摘し、妻にもらうつもりもないのに、どうして嫉妬するのかと問い詰める場面である。頭脳の面で圧倒的優位に立っている男性が、無教育とされている女性にむきだしの言葉でやり込められる。体面や意地を捨てて、今の気持ちにまっすぐに生きようとする女性を漱石は賛美しているようだ。しかしこれは文壇や世間の評判から超然とした態度をとり続けた来た漱石自身の姿だろう。
 ストーリーには何となく煮え切らないものを感じる小説だけれど、描写に関しては本当にため息をつくほどすばらしい。とりわけ、幼い子どもを葬るシーンは美しい。漱石自身が連載のふた月前に五女雛子を亡くしていることがこの場面の厚さの理由だろう。子どもの多い漱石の家はにぎやかだったろう。神経衰弱のために家族と離れて暮らしたりもした漱石なので、実際の家庭は楽しいばかりではなかったと思うが、『門』坂井家の様子や、この作品の千代子や百代子のちょっとしたやりとりや、親たちとの会話などに、リアリティが強く感じられる。『猫』に出てくる家族は戯画化されすぎて、かえってリアルではないけれど、これらの描写はしっとりとしていて家族への愛が感じられる。もしかしたら漱石が実際にはできなかった姿が小説に描かれているのかもしれない。